「梨本宮守正王」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[久邇宮朝彦親王]]の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、[[梨本宮]]家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代[[梨本宮守脩親王|守脩親王]]のあと、[[山階宮]]家出身の[[山階宮菊麿王|菊麿王]]が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされている。
 
=== 結婚 ===
[[1896年]](明治29年)に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]卒業後、[[歩兵第11連隊]]附<ref>[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843908 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿』(明治31年7月1日調)]128頁 </ref>。[[1903年]](明治36年)に[[フランス]]留学。これに先立つ、[[1900年]](明治33年)に[[鍋島直大]][[侯爵]]の二女[[梨本伊都子|伊都子]]と結婚。[[李方子|方子女王]]、[[広橋規子|規子女王]]の2女をもうける。[[1904年]](明治37年)に[[大勲位菊花大綬章]]を受章している
 
=== 軍歴 ===
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=== 伊勢神宮祭主 ===
[[第二次世界大戦]]中の[[1943年]](昭和18年)、[[伊勢神宮]][[祭主]]に就任した。[[1945年]](昭和20年)に、[[皇典講究所]]第6代(最後)総裁就任した。しかし日本の敗戦後[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]軍による占領下で運命は暗転する
 
=== A級戦犯容疑 ===
神宮祭主であったことから[[国家神道]]の主体的な頭目であったとみなされ、皇族としてただ1人[[A級戦犯]]容疑者に指定され、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に拘置された。本人も身の覚えがないと自覚しており、半年後に不起訴で釈放されたが、宮邸に帰宅してみると、集団強盗に襲われ家財の多くが盗難に遭っていた(犯人の一部は逮捕された)。
 
同じ皇族の元帥でも、統帥部長を長く務め軍部の動向にも大きく影響を及ぼした[[閑院宮載仁親王]]や[[伏見宮博恭王]]に比べれば、ほとんど軍務や時勢には関与しておらず、「誰も覚えていなかったような過去の人」([[秦郁彦]])、「間違いで引っ張ったとしか思えない」([[半藤一利]])と評されている<ref>引用は、「歴代陸軍大将全覧 大正篇」P252より、[[中公新書ラクレ]]、2009年</ref>。連合国軍の占領下の[[1947年]]10月に皇籍離脱。1951年(昭和26年)[[元旦]]に、自邸で逝去。享年78。
 
== 没後 ==