「アウラングゼーブ」の版間の差分

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アウラングゼーブは治世の前半、歴代皇帝が行なってきた[[スーフィズム]]の[[チシュティー教団]]による穏健な宗教政策を改めた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref>。[[スンナ派]]の教義をもととした[[シャリーア]]に基づく保守反動的な宗教政策となり、ヒンドゥー寺院を破壊するなど、他宗教に厳しい弾圧を行った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p238</ref>。そのため、[[シーア派]]、[[ヒンドゥー教徒]]、[[ラージプート]]、[[マラーター同盟|マラーター族]]、[[シク教徒]]などの反感を買った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p237</ref>。
 
[[1660年]]代から抵抗を始めたマラーターの[[シヴァージー]]の抵抗には、アウラングゼーブは何度も苦慮させられる羽目となった。シヴァージーは多数の砦をコンカン地方に持ち、その軽騎兵は俊敏で、帝国領[[グジャラート]][[スーラト]]は2度にわたりその略奪をうけた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref><ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>。
 
[[1674年]]、シヴァージーはヒンドゥー教の儀式に乗っ取り、マラーター王を宣し[[マラーター王国]]を建国した<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>。こうしてデカンにはヒンドゥー教を奉じる王国が建設され、帝国はしだいに分裂の方向に向かっていった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242</ref>
 
[[1679年]]に[[ジズヤ]](非イスラム教徒に課せられた[[人頭税]])を復活させると、ラージプートの一部が反乱を起こした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p239</ref>。アクバルの代から帝国に仕えてきたラージプート氏族に対し、アウラングゼーブが非礼をとったのも原因であった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p239</ref>。
 
このとき、シヴァージーも抗議の手紙を送って、今ある帝国の繁栄は過去の皇帝の努力によるものだとわからせようとした<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref>。彼は「ジズヤを復活したことでティムールの名を汚した」、と厳しい批判を書き連ねている<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p241</ref>。
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アウラングゼーブはそれでもデリーに戻らず、領土の拡大に執念を燃やして、南インドに逃げたマラーターと戦っていた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。[[1700年]]代になるとマラーターの反撃も激しくなったが、それでも彼はマラーターと戦い続けて、ついに[[1705年]]に病気で倒れた<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。アウラングゼーブは回復したが、老齢による衰えは隠せずに、[[1706年]]以降はデカンのアフマドナガルにとどまった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。
 
アウラングゼーブを不安にさせたのが、彼の息子たちの不和で、長男[[バハードゥル・シャー1世|ムアッザム]]と三男[[アーザム]]、五男[[カーム・バフシュ]]のなかが悪く、かつて自分が帝位を争ったように彼らも争って殺しあうのではないかと思うようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。彼は皇位継承戦争が死後に勃発するのではないかと、日増しに恐れるようになった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。それを防ぐため、アーザム・ハーンとカーム・バフシュを死ぬ2週間前に別々の地域に送った<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p245</ref>。
 
アウラングゼーブ自身もかつての皇帝時代の残酷な政策やデカンへの遠征にたいして次第に後悔するようになったといわれてる<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p246</ref>。死ぬ数日前にアーザム・ハーンに送った手紙には自身の統治に対して深い後悔の念が記されている。その内容はこうだった<ref>ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p246より引用、一部改編</ref>。
 
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