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[[ファイル:Koeningsburg-817.jpg|250px|right|thumb|T-34戦車、第二次大戦の戦勝記念碑の1つ]]
ドイツの戦後処理が話し合われたポツダム会談において、ケーニヒスベルクはソ連邦への帰属が決定された。すなわち、東プロイセンは南北に分割され、南部はポーランド領に、ケーニヒスベルクを含む北部はソ連の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]に編入されたのである。しかし戦後もドイツ系市民約2万人(1945年7月の同市の総人口は約7万人)が同市内に残留していた。しかし[[1947年]][[10月11日]]スターリンは市内に残留していたドイツ系市民の追放を決定し、翌年にかけてドイツ系残留市民は全員鉄路で[[ソビエト占領区域]](後の[[東ドイツ]]地域に相当)へと移送された。前後して大量のソ連市民が市内へ移住した。[[1946年]][[7月4日]]、ソ連領となったケーニヒスベルクは時の[[ソビエト連邦最高会議幹部会議長]][[ミハイル・カリーニン|ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニン]]にちなんでカリーニングラード市、区域全体は[[カリーニングラード州]]とロシア語名に改称された。その後、ドイツ時代の遺物としてケーニヒスベルク城、ケーニヒスベルク大聖堂などの歴史的建造物がほとんど破壊され、城の跡地には[[ソビエトの家]]が建設された。
 
カリーニングラードは[[冷戦]]時代は軍事都市として、州全体が外国人の立ち入りが規制される[[閉鎖都市]]だった。ソ連でも重要な[[不凍港]]としてバルト艦隊の拠点となり、造船業が発達、また古くからの[[琥珀]]の世界的産出地としても地位を確かなものとした。