「嶋中事件」の版間の差分

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『[[朝日新聞]]』はコラム「[[天声人語]]」で処刑描写について「人道に反する」「夢物語だから許されるというものではなかろう」<ref name="bookasahi" />と非難したが、一方で、評論家の[[吉本隆明]]は処刑されるのは「実在の人物とは似つかぬ」「人形」のように描かれているものであると擁護し、「月例の作品のなかでは最上等の部」と高く評価した<ref name="bookasahi" />。小説家の[[武田泰淳]]も作品を「痛快」と絶賛し、[[象徴天皇制]]の「非人間」性を指摘して、「天皇を無生物視している悪逆の徒は深沢氏ではなく」深沢を「ひどい」と攻撃する人々の方だとした<ref name="bookasahi" />。当時まだ天皇批判を繰り返していた作家としての[[石原慎太郎]]は、全く逆の観点から、「無責任で役立たずな皇室に庶民は欲求不満を持っており、本作はその庶民の感覚としてポピュラーでソックもなく<ref>「ソック」とは拳骨の一撃、打撃のことで、「ソックもなく」は「ショックもなく」とほぼ同義。</ref>面白い」として、本作を賞賛した<ref>『[[週刊文春]]』1960年12月12日号</ref>。{{seealso|名誉毀損|表現の自由}}
<!--以下は事件後や当時の記憶を書いたものを含む-->
右翼は皇族が処刑され冒涜される描写に憤慨したが、「{{ルビ|左慾|サヨク}}」という皮肉を込めた漢字表記からからも伺えるように、深沢は60年安保に見られた[[左翼]]運動で安易に語られた「革命」も[[パロディ]]としているのであり、右翼が怒ったような内容<ref>右翼は風流夢譚を皇室批判の左翼小説であると断じていた。国会答弁でも「夢物語とはいいながら、国家の象徴たる皇室を誹謗し、暴動を示唆扇動するがごとくに思われる内容」と評されており、それが世間一般の認識だった。作家や評論家の認識とはその点で齟齬があった。</ref>ではなかったと深沢と親交のあった[[嵐山光三郎]]は指摘した<ref name="上條" />。小説の内容は、革命を煽動したり賛美したりするのではなく、むしろその愚かさと恐怖を書いたという点については、事件後に『中央公論』編集者を引き継いだ[[粕谷一希]]も同様の解釈を述べた<ref name="粕谷" />。『[[噂の真相]]』元副編集長(同様に右翼の襲撃を受けた)[[川端幹人]]も「'''一切の現実的価値観の無化'''」が主題で、単なる反天皇小説ではなかったとの見解を述べていて<ref name="川端">{{Citation |和書| last =川端 | first =幹人|author-link=川端幹人|series=ちくま新書 |year=2012|pages=53-56| title =タブーの正体!: マスコミが「あのこと」に触れない理由 | publisher=筑摩書房|isbn=978-4480066459}}</ref>、作家の[[永江朗]]もあくまで[[フィクション]]であり、荒唐無稽な話をすべてまともに受け取った右翼の反応の方を疑問視した<ref name="永江" />。[[渡邉文男]]が聞いた話によると、竹森清は「風流夢譚は[[ブラックユーモア]]なのに、右翼の[[原罪]]になってしまった」<ref>{{cite web| url=http://www.tanteifile.com/watch/2011/09/22_01/ |title=老舗出版社倒産――社長は「風流夢譚」事件の関係者 | publisher=探偵ファイル| date=2011-09-22 |accessdate=2014-04-15|author=渡邉文男}}</ref>と語ったという
 
===右翼・保守派の反発 ===
姿を隠した作者深沢に代わり、掲載した中央公論社が批判の矢面に立つことになったが、右翼系の日刊紙『[[やまと新聞社#.E5.B8.9D.E9.83.BD.E6.97.A5.E6.97.A5.E6.96.B0.E8.81.9E|帝都日々新聞]]』と[[野依秀市]]は同社を非難し、[[11月28日]]には[[大日本愛国党]]の党員8名が、会社に押し掛けて謝罪文を要求した。
 
翌[[11月29日]]には[[宮内庁]]が「皇室の名誉を棄損するものではないか」<ref name="shin">{{Citation |和書| last = | first =|author=明治大正昭和新聞研究会 |year=2013|pages=318| title =新聞集成昭和編年史 昭和36年版 1 嶋中事件 | publisher=新聞資料出版 |isbn=978-4884102708}}</ref>と抗議する旨を発表し、[[第2次池田内閣|池田勇人内閣]]の[[閣議]]では皇室に代わって宮内庁が民事訴訟を検討すべきだという意見も出て、これが多数派を占めたが、[[官房長官]]だった[[大平正芳]]が制して提訴には至らなかった<ref name="粕谷" />。このようなことから、翌日、竹森編集長が中央公論社を代表して宮内庁に訪れて迷惑をかけたことを謝罪することになり、宮内庁も訴訟を取りやめて、一応、決着をみた。
 
しかし、これだけでは右翼団体側の反発は収まらず、ポスターや立て看板、飛行機からビラを散布して、中央公論社への糾弾を続けた。また、[[国粋会]]、[[松葉会]]などの右翼団体は中央公論編集部へ抗議に押し掛けて威圧し、乱暴を働いた。