「サッカーハンガリー代表」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Ukyo (会話 | 投稿記録)
122.1.236.213 (会話) による ID:50804376 の版を取り消し
出典追加、WP:APTWP:DATEDに基づき修正
4行目:
|協会=[[ハンガリーサッカー連盟]]
|愛称=The Magyars
|監督=[[ピンテル・アッティラ (1966年生のサッカー選手)|ピンテール・アッティラ・ピンテル]]
|最多出場選手=[[ボジク・ヨージェフ]]
|出場試合数=101
|最多得点選手=[[フェレンツ・スカシュ|プスシュ・フェレンツ]]
|得点数=84
|初の国際試合開催年=1902
38行目:
 
=== マジック・マジャール ===
ハンガリーは[[第二次世界大戦]]以前から、ヨーロッパの強豪国のうちの一つに数えられていたが、戦後1949年から代表監督に就任した[[シェベシュ・グスターヴ]]は、当時主流だった、WMシステムを改変したMMシステムを採用して、ハンガリーを一気に世界最強のナショナルチームへと変貌させた。{{要出典範囲|このMMシステムは、バックスが3人と言う点ではWMと同一であるが、中盤を5人と厚くし、特に両サイドの動きを重視したシステムであった、人数は後ろから3-5-2であるから、現在2010年代に主流となっているシステムにもかなり近いものといえる|accessdate=2014年4月}}
 
1950年から連勝街道を突き進んだハンガリー代表は、1952年の[[ヘルシンキオリンピック]]では金メダルを獲得。<ref name=osumi>{{cite web|url=http://www.soccertalk.jp/content/1997/01/no17643.html|title=No.176 43年目のクリスマスプレゼント |work=サッカーの話をしよう [[大住良之]]オフィシャルアーカイブサイト|date=1997.1.13|accessdate=2012.9.3}}</ref>[[1953年]]11月にサッカーの母国[[サッカーイングランド代表|イングランド]]との親善試合にてアウェイで6-3と大勝した。<ref name=osumi/>更に翌1954年にはホームにイングランドを迎え7-1の大差で再び下した。この事により世界のメディアは「[[マジック・マジャール]]」と呼び、迎える1954年のワールドカップではハンガリーが優勝候補の筆頭であると目されていた。
 
=== ワールドカップスイス大会(1954年) ===
47行目:
試合はハンガリーが8-3で勝利した<ref name="ワールドカップの国際政治学">{{Cite book|和書|author=[[松岡完]]|year=1994|title=ワールドカップの国際政治学|volume=|publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>が、この対戦において、ハンガリーのエースであるFW[[フェレンツ・プスカシュ|プスカシュ・フェレンツ]]に対して西ドイツのリープリッヒが重大な損傷を与えており、今なお議論の対象になっている<ref name="ワールドカップの世界史 ">{{Cite book|和書|author=[[千田善]]|year=2006|title=ワールドカップの世界史|volume=|publisher=[[みすず書房]]}}</ref><ref>DFリープリッヒが故意にプスカシュの左足を痛めつけたという話は『ブンデスリーガ - ドイツサッカーの軌跡』の著者ウルリッヒ・ヘッセ・リヒテンベルガーによれば、この場面の映像も写真も存在せず、真相は定かではない</ref>。
 
西ドイツの[[ゼップ・ヘルベルガー|ヘルベルガー]]監督の思惑は的中し、ハンガリーはグループリーグを首位で通過し、決勝トーナメント初戦の準々決勝で前回大会準優勝の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と対戦する事になった。大雨の中で行われたこの試合は後に[[ベルンの戦闘]]([[:en:Battle of Berne]])と呼ばれる荒れた展開となった。ハンガリーは2点を先取したが、ブラジルが反撃。前半のうちに、ハンガリーのトート・ミハーイが負傷退場し、後半にはハンガリーからさらに1人、ブラジルから2人退場者を出した。試合は4-2でハンガリーが勝利したが、試合終了後、ピッチの上で両チームの選手同士で殴り合いが始まり、一旦は収束しかけたが、ブラジル代表選手がハンガリーの更衣室に殴りこんだ為に、両チームの選手だけでなく関係者も加わっての乱闘となった。血まみれで運び出される選手もいた。この騒ぎを収める為に警官隊が出動する事態となり[[国際サッカー連盟]](FIFA)は慌ててフェアプレーを呼びかけた。
 
準決勝の相手は前回大会優勝国の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]。この対戦でもハンガリーは苦戦を強いられたが、雨中の延長戦の末に4-2で打ちった。これら南米の強豪国を下した事で最も優勝に近い国と思われたが、ハンガリーの連勝記録もここまでとなった。
 
決勝ではグループリーグで対戦した西ドイツと再び相まみえることになった。ハンガリーの機能的に組織する中盤への対策に、西ドイツはディフェンスラインを強化していた。ハンガリーは6分にプスカシュ、8分に[[チボル・ゾルターン]]と序盤に立て続けに得点し、2-0とリードした。西ドイツはあわてなかった。西ドイツは[[マックス・モーロック|モーロック]]、[[ヘルムート・ラーン]]の得点で追いつき、84分にはついに[[フリッツ・ヴァルター]]のパスからラーンが逆転ゴールを決めた。試合終了直前にプスカシュが同点ゴールを決めたかに思われたが、[[オフサイド]]と判定され、ハンガリーは2-3で逆転負けを喫した。大会の全試合を通じて、ハンガリーが相手チームにリードを許したのは、この決勝戦の最後の6分間だけであり、さらに1950年から1956年までの間のハンガリーの国際試合での敗戦はこの決勝戦が唯一だったのであった。この試合でハンガリーの国際試合連勝記録は33で止まったが、この記録を破るチームは未だ現れていない。また、この大会においてハンガリーは27得点(5試合)という「1大会最多総得点」のワールドカップ記録を残している。
56行目:
 
=== マジック・マジャールの崩壊 ===
1954年のワールドカップ終了後も、1955年11月の[[サッカーイタリア代表|イタリア]]戦まで、18戦無敗(15勝3分)するなど、マジック・マジャールは未だに高い実力を保持していた。1958が、1956年の[[ハンガリー動乱]]により国内リーグは中止され、翌年も通常の半分ほどの試合しか行われなかった。この民主化運動に端を発した動乱は最終的に[[ソビエト連邦]]を筆頭とする[[ルシャワ条約機構]]の軍事介入によって鎮圧されたが、ソ連の介入を恐れた選手達の中で遠征中だったプスカシュ、[[シャンド・コチシュ|コチシュ・シャーンカップにおけるリベル]]、チボル・ゾルターらは帰国せずそのまま西側諸国へ亡命した。[[ボク・ヨージェフ]]や[[ラントシュ・ミハーイ]]、[[ヒデクチ・ナーンドル]]らは国内に留まったものの、主力選手喪失したことによってマジック・マジャールは事実上崩壊しのだ
 
しかし、これを覆す事態が起こる。1956年の[[ハンガリー動乱]]である。この年、国内リーグは中止され、翌年も通常の半分ほどの試合しか行われなかった。この民主化運動に端を発した動乱は最終的に[[ソビエト連邦]]を筆頭とする[[ワルシャワ条約機構]]の軍事介入によって鎮圧されたが、ソ連の介入を恐れた選手達の中で折しも遠征中だったプスカシュ、[[シャーンドル・コチシュ|コチシュ・シャーンドル]]、チボル・ゾルターンらは帰国せずそのまま西側諸国へ亡命した。[[ボジク・ヨージェフ]]や[[ラントシュ・ミハーイ]]、[[ヒデクチ・ナーンドル]]らは国内に留まったものの、主力選手を喪失したことによってマジック・マジャールは事実上崩壊したのである。
 
=== その後のハンガリー代表 ===
ハンガリー動乱による選手の大量流出は同国のサッカーを徐々に蝕み、後退させる結果となった。<!--また、共産党([[ハンガリー社会主義労働者党|社会主義者労働党]])独裁政権のハンガリー政府は、他の共産主義政権と同様に国威高揚の為、[[近代オリンピック|オリンピック]]の好成績を必要としていた。個人競技の競技人口を増やす為に、人気がある[[サッカー]]に対して抑圧が行われるようになった。学校の体育の授業時に[[サッカー]]がある場合は、男性教師ではなく女性教師を担当させるようにしたほどである<ref>[http://www.from1.com/calcio2002/ CALCIO2002公式HP]</ref>。リンク切れおよびInternet Archive Wayback Machineから得られた情報からは上記内容が実際に記載されたのか不明瞭なためコメントアウト-->
 
当時の規定でアマチュア選手のみが出場でき、西側のプロ選手が参加できないオリンピックでは1964年[[東京オリンピックにおけるサッカー競技|東京大会]]、1968年[[メキシコシティオリンピックにおけるサッカー競技|メキシコシティ大会]]と連覇を果たすが、プロ、アマに関係なく出場できるワールドカップでは1962、1966年のベスト8が最高で、54年大会の成績を上回る記録を残せていない。政府の政策もあり、実力のある選手が生まれにくくなり、さらに1950年代の栄光が忘れられず個人技重視のスタイルに固執した結果、ワールドカップでは勝てなくなったのである<ref name="ワールドカップの国際政治学" />。その為、1970年代半ばから改革に着手した<ref name="ワールドカップの国際政治学" />。
 
1982年の[[1982 FIFAワールドカップ]]ではグループリーグの[[サッカーエルサルバドル代表|エルサルバドル]]戦に10-1のスコアで大勝、「チーム1試合最多得点」のワールドカップレコード「10点」を叩き出したが、アルゼンチンに完敗を喫しベルギーに引き分けたため、グループリーグ敗退に終わった。1986年の[[1986 FIFAワールドカップ|メキシコワールドカップ]]出場を最後に欧州地区予選での敗退が続いている。
 
[[2010 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|2010年南アフリカワールドカップ]]欧州予選では[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]、[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]といった強豪国を抑えて[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]に次ぐプレーオフ圏内の2位に位置し7大会ぶりの出場の期待が高まっていたが、終盤の連敗が響き最終的には4位に終わり、7大会ぶりの出場はならなかった。
 
[[UEFA欧州選手権|欧州選手権]]は1964年の3位が最高成績で1976年以降は予選敗退が続いている。
 
== 記録 ==
[[1902年]][[10月12日]]、[[オーストリア]]の[[ウィーン]]で行われた、オーストリア対ハンガリーの試合は、イギリス4協会のナショナルチーム以外で行われた、最初の国際試合であった。
 
[[1953年]][[11月25日]]、[[イングランド]]の[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー]]で行われたイングランド対ハンガリーで、ハンガリーが6-3でイングランドを下した。これはイギリス4協会以外のナショナルチームがイングランドをホームで破った初めての試合であった。([[:en:England v Hungary (1953)]]参照)。翌年にはリベンジに燃えるイングランドを、[[ブダペスト]]に迎えて7-1で下した。これがイングランド代表の最大記録であとなってい。これらの出来事は1863年の[[イングランドサッカー協会|フットボール・アソシエーション]]設立以来、イングランドサッカーシーンにおいて最大の衝撃であった
 
最も特筆するべきは、[[1950年]][[5月14日]]から[[1954年]][[6月30日]]までの間に達成された、ナショナルチームとしての連勝記録'''33'''である。1991年から1993年までの間に[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]が31まで迫ったが、これはあくまで「無敗」記録であり「連勝」記録とは異なる。そしてこのハンガリー代表の記録は現在2014年の時点に至るまで破られていない。
 
== FIFAワールドカップの成績 ==
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|-
176 ⟶ 174行目:
|}
 
== オリンピックの成績 ==
*1952 - '''優勝'''
*1960 - 3位
322 ⟶ 320行目:
| {{Flagicon|HUN|size=20px}} [[エゲルヴァーリ・シャーンドル]] || 2010-2013 || 34 || 17 || 8 || 9
|-
| {{Flagicon|HUN|size=20px}} [[ピンテル・アッティラ (1966年生のサッカー選手)|ピンテール・アッティラ・ピンテル]] || 2013- || || || ||
|}
{{col-end}}
 
== 選手 ==
{{Col-begin}}
{{Col-42}}
===; GK ===
*[[グロシチ・ジュラ]]
 
; DF
{{Col-4}}
=== DF ===
* [[ラントシュ・ミハーイ]]
* [[ブザーンスキー・イェネー]]
* [[{{仮リンク|バーリント・ラースロー]] ([[:en:Balint Laszlo|en]])hu|Bálint László}}
* [[{{仮リンク|ガバラ・イムレ]] ([[:en:Gabara|hu|Garaba Imre|en]])}}
 
; MF
{{Col-4}}
=== MF ===
* [[ボジク・ヨージェフ]]
* [[ザカリアーシュ・ヨージェフ]]
347 ⟶ 343行目:
* [[リステシュ・クリスティアーン]]
* [[フスティ・サボルチ]]
* [[{{仮リンク|ダルダイ・パール]]|hu|Dárdai Pál (labdarúgó, 1976)}}
* [[ハイナル・タマーシュ|タマーシュ・ハイナル]]
 
{{Col-42}}
===; FW ===
* [[シュロッセル・イムレ]]
* [[シャーロシ・ジェルジ]]
372 ⟶ 368行目:
{{Col-end}}
=== キャップ ===
[[20132014年]][[103155日]]現在
{{legend|#CFECEC|水色は現役代表選手|border=#AAAAAA}}
{| class="wikitable" cellpadding="3" style="text-align: center;"
386 ⟶ 382行目:
|4||[[グロシチ・ジュラ]]||86||1947-1962
|-
|5||[[フェレンツ・スカシュ|プスシュ・フェレンツ]]||85||1945-1956
|-
|6||[[ガラバ・イムレ]]||82||1980-1991
392 ⟶ 388行目:
|7||[[マートライ・シャーンドル]]||81||1956-1967
|- style="background:#CFECEC;"
|8||[[ユーハス・ローランド]]||7879||2004-
|-
|9||[[シポシュ・フェレンツ]]||77||1957-1966
|- style="background:#CFECEC;"
|9||[[ゲラ・ゾルターン]]||77||2002-
|- style="background:#CFECEC;"
|9||[[ヴァンチャーク・ヴィルモシュ]]||77||2004-
|-
|}
出典:<ref name="RSSSF">{{Cite web| url = http://www.rsssf.com/miscellaneous/hong-recintlp.html | title= Hungary - Record International Players | publisher =Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation | accessdate = 2014年4月18日}}</ref>
 
=== 得点 ===
[[20132014年]][[103155日]]現在
{{legend|#CFECEC|水色は現役代表選手|border=#AAAAAA}}
{| class="wikitable" cellpadding="3" style="text-align: center;"
407 ⟶ 406行目:
!位!!名前!!得点数!!期間
|-
|1||[[フェレンツ・スカシュ|プスシュ・フェレンツ]]||83||1945-1956
|-
|1||[[シャーンドル・コチシュ|コチシュ・シャーンドル]]||75||1948-1956
415 ⟶ 414行目:
|4||[[ティヒ・ラヨシュ]]||51||1955-1971
|-
|5||[[シャーロシ・ジェルジ]]||42||19061931-19131943
|-
|6||[[ヒデクチ・ナーンドル]]||39||1945-1958
427 ⟶ 426行目:
|10||[[アルベルト・フローリアーン]]||31||1959-1974
|}
出典:<ref name="RSSSF"/>
</div><br style="clear: left;" />
 
== 脚注 ==
{{reflistReflist}}
 
==外部リンク==