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[[画像:壬生新選組屯所跡.jpg|thumb|160px|八木家 新選組屯所碑]]
'''八木 源之丞'''(やぎ げんのじょう、[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]]) - [[明治]]36年([[1903年]])[[12月21日]])は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[山城国]][[葛野郡]]壬生村(現 [[京都府]][[京都市]][[中京区]])の[[苗字帯刀]]を許された富裕[[郷士]]。八木家10代目当主。源之丞は[[通称]][[]]応迅(まさはや)であり'''八木応迅'''といい、(まさはや)。[[本姓]]は[[日下部氏]]であることから朝臣としての正式な名のりは'''日下部応迅'''(くさかべの まさはや)。
 
== 生涯 ==
文化11年(1814年)、壬生郷士の八木家9代目八木応乗(やぎ まさのり)の長男として生まれる。
 
[[天保]]7年([[1836年]])、父が死去すると[[家督]]を継いだ。
 
[[文久]]3年([[1863年]])、[[浪士組]]が[[江戸]]より上洛した際に八木家を宿の一つとする。その宿泊メンバーが、[[芹沢鴨]]・[[近藤勇]]・[[土方歳三]]などであり、後に[[壬生浪士組]]を結成。次いで[[新選組]]となる。新選組が結成されてからも、八木家は屯所として使われ、屯所が[[西本願寺]]に移る際には、土方歳三が隊士達を連れて挨拶廻りに来たという。
 
明治36年(1803年)、死去。享年90。
 
[[昭和]]初期、[[子母澤寛]]の取材によって、息子・[[八木為三郎|為三郎]]が父の遺談を伝え、子母澤『[[新選組遺聞]]』に収められた。
 
八木家は今日でも現存し、芹沢鴨暗殺事件の時に付けられたとされる刀の斬跡などが柱などに残っている。
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:やき けんのしよう}}
[[Category:幕末の人物]]
[[Category:日下部氏]]
[[Category:1814年生]]
[[Category:1903年没]]