「セルマ・ラーゲルレーヴ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
G.medborg (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
G.medborg (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
35行目:
[[ファイル:Stamp of USSR 2284.jpg|thumb|1959年にソ連が作成したラーゲルレーヴの[[記念切手]]]]
[[ファイル:Selma Lagerlöf.jpg|thumb|1909年時のラーゲルレーヴ]]
'''セルマ・ウッティーリア・ルヴィーサ・ラーゲルレーヴ'''({{lang-sv|Selma Ottilia Lovisa Lagerlöf}}、{{IPA-sv|ˈsɛlˈma ˈlɑːɡərˈløːv|lang|sv-Selma_Lagerlöf.ogg}}、[[1858年]][[11月20日]] - [[1940年]][[3月16日]])は、[[スウェーデン]]の女性[[作家]]。
 
『[[ニルスのふしぎな旅]]<ref>原題は『ニルス・ホルガションのふしぎなスウェーデン1周旅行''Nils Holgerssons underbara resa genom Sverige''』</ref>』(1906年・1907年)の著者で、[[1909年]]に女性初、[[スウェーデン人]]初となる[[ノーベル文学賞]]を受賞したとして名高い。現行の20[[スウェーデン・クローナ]]紙幣には、表にラーゲルレーヴの肖像、裏にニルスが描かれている<ref>2014年に紙幣のデザインの変更に伴い、20クローナはアストリッド・リンドグレーンになる予定った」</ref>。
 
== 生涯 ==
=== 出生から作家デビューまで ===
1858年11月20日、[[ノルウェー]]との国境に近い[[ヴェルムランド地方]]の[[モールバッカ]]に退役軍人のエリック・グスタフ・ラーゲルレーヴ(''Erik Gustaf Lagerlöf'')とルイー・ラーゲルレーヴ(''Louise Lagerlöf'')の5人の子供の4番目として生まれた{{sfn|大日本百科事典|1967|p=145}}
 
ヴェルムランド地方は農業や馬の生産、製鉄、炭焼き、林業などの盛んな地域で、詩人{{仮リンク|エサイアス・テグネル|en|Esaias Tegnér}}や歴史学者{{仮リンク|エリック・グスタフ・イェイイェル|en|Erik Gustaf Geijer}}も輩出している。ラーゲルレーヴ家は、大農場と鍛冶場を所有し、テグネルやイェイイェルとも親戚筋にあたる名家であった。ラーゲルレーヴは、生まれつき足が不自由であったため外で遊ぶことができず、文学好きの父や民間伝承に詳しい祖母の影響で、文学の好きな少女に成長した{{sfn|大日本百科事典|1967|p=145}}{{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=322}}
 
スウェーデンでは[[1870年代]]に急速な近代化が興り、それに伴ってラーゲルレーヴ家は急速に没落した。
58行目:
1894年に出版した第2作『{{仮リンク|見えざる絆|sv|Osynliga länkar}}』が商業的な成功を収めたため、ラーゲルレーヴは女学校をやめて専業作家となった。それ以降、ラーゲルレーヴは『{{仮リンク|アンチ・キリストの奇跡|sv|Antikrists mirakler}}』(1897年)、『{{仮リンク|クンガヘラの女王たち|sv|Drottningar i Kungahälla}}』(1899年)、『{{仮リンク|地主屋敷の物語|sv|En herrgårdssägen}}』(1899年)と、人気作品を次々と刊行し、スウェーデン国内でも、国際的にも、不動の名声を獲得した。
 
[[1896年]]、スウェーデン中部の[[ダーラナ地方]]で、「神の声を聞いた」という農民たちが、[[エルサレム]]に集団移住した。スウェーデン国民の多くは、移住した農民たちに批判的だったが、ラーゲルレーヴはエルサレムで農民たちを取材し、移住した農民たちとダーラナに残った農民たちの葛藤と和解を描いた二部作からなる大著『{{仮リンク|エルサレム (ラーゲルレーヴ)|sv|Jerusalem (bok)}}』を刊行した(第一部『ダーラナで』(1901年)、第二部『聖地にて』(1902年))。『エルサレム』は、1901年に第一回ノーベル文学賞の候補となった(受賞したのは1909年){{sfn|グランド現代百科事典|1983|p=322}}
 
=== 『ニルスのふしぎな旅』 ===