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'''石谷 穆清'''(いしがや あつきよ、[[生没年不詳]])は、[[幕末]]の[[江戸幕府]][[旗本]]。官位は因幡守、後に長門守。[[江戸時代]]初期に江戸[[町奉行|北町奉行]]を務めた[[石谷貞清]]の子孫。
 
[[嘉永]]2年([[1849年]])、[[堺奉行]]に就任し、嘉永5年([[1852年]])[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]に[[大坂町奉行|大坂西町奉行]]となり、[[安政]]元年([[1854年]])[[5月20日 (旧暦)|5月20日]]まで務める。安政2年([[1855年]])[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]、[[勘定奉行]]となり、安政5年([[1858年]])に江戸[[町奉行|北町奉行]]となり、[[安政の大獄]]では[[五手掛]](他に[[寺社奉行]][[松平宗秀]]、勘定奉行[[池田頼方]]、[[大目付]][[久貝正典]]、[[目付]][[神保長興]])として処断に関与。[[文久]]2年([[1862年]])[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]に[[一橋徳川家|一橋家]]家老、[[8月24日 (旧暦)|8月24日]]に[[講武所]]奉行となり一ヶ月務める。