「北京議定書」の版間の差分

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この議定書は、列国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。
 
この状況は[[第二次世界大戦]]の終了まで事実上維持された。[[日中戦争]]の端緒となった[[盧溝橋事件]]において「'''なぜ日本が中国の領域深くまで当然のように兵を置いていたのか'''」という疑問を聞くことがある。日本からすれば北京議定書に基づく権利の行使に基づいた駐留だった。[[辛亥革命]]後、中国は複数の腐敗した軍閥が割拠し、外国人への襲撃が相次いだこともあり、日本を含む8ヶ国の列強が居留民や領事館等を保護するため各地に駐兵していた。事前通報すれば演習は可能だったとはいえ、盧溝橋も豊台も議定書で駐留を認められた場所ではない。盧溝橋事件後、日中両国間で停戦協定が結ばれながらも、[[廊坊事件]]、[[広安門事件]]など数々の衝突が続く。
 
義和団の乱の再発を列国が恐れたための内容であるともいえる。清朝国内での警察権・駐兵権の禁止にとどまらず、排外団体結成禁止、地方官吏への排外団体取締りの厳命、それに背いた場合の罰則なども盛り込まれている。また、外国人殺害のあった市府の科挙受験禁止などは中国ならではの厳しい見せしめ政策であったといえよう。