「大東輿地図」の版間の差分

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zh:大東輿地圖より加筆
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金正浩自身が30余年間全国を歩き完成させたとされる。研究では、半島全てを踏破するのは信じがたくそれ以前の地図を参考に補填・修正を加えて作成されたとしている。しかし、それまでの地図には見られなかった地形表示法の開発、詳細な山河網の記入などは勿論、行政区域ではなく、座標を用いたことが新しい。冊子を全てつなぐと横3メートル、縦7メートルにもなる。
 
地図には、[[山脈]]、[[河川]]、[[島嶼]]、港口、[[航路]]、行政区の境界、[[交通網]]、[[通信]]、[[史跡]]などが示されている。
 
『大東輿地図』は『[[青邱図]]』を元に作られたのであるが、『青邱図』が南北100里、東西70里に対し、『大東輿地図』は南北120里、東西80里となっている。『青邱図』に比べて山筋と河川網が非常に正確に記されていて、実際の旅においてより実用的になった。さらに持ち運びのよい90万分の1の『大東輿地全図』も木版刊行した。朝鮮交易を行う[[対馬藩]]の[[宗氏]]に対して朝鮮が官職を与えるなどしていたことから、[[対馬]]はこの地図の方には記載されているが、位置や形状等は不正確である。
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ファイル:Daedongyeojido in museum 2.jpg|『大東輿地図』(1861)
ファイル:DaedongyeojidoUlleungdo.png|『大東輿地図』(1861):[[鬱陵島]]と[[于山島|于山]](鬱陵島の東側に近接する島)
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== 『大東輿地図』と領土問題 ==
上記のように、この地図には竹島(韓国名「独島」)が記されていないほか、中国とのあいだにしばしば係争地として持ち上げる「[[間島]]」(現在の[[中華人民共和国]][[延辺朝鮮族自治州]])も、この地図には記されていないため、「朝鮮側も清国の間島領有を認めていた」とする中国側に有利な証拠となっている。
 
== 脚注 ==