「鈴木銀之助」の版間の差分
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|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[岩手県]]
|生年月日 =
|没年月日 =
|身長 = 176
|体重 = 69
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==来歴・人物==
[[1929年]][[岩手県立福岡高等学校|福岡中学]]卒業後、[[明治大学]]などを経て、[[1950年]]に発足したばかりの[[広島東洋カープ]]へ入団。しかし当時すでに38歳となっていて、結局一軍公式戦は3試合の出場となり1年限りで引退。
指導者として非凡な才能を発揮し、昭和6年、昭和15年、昭和22年の母校福岡中学の甲子園出場は鈴木の指導に追うところが多かった。「練習は厳しく、試合はリラックス」を指導方針とし、選手が試合中に失敗しても決して怒ることがなかったが、練習では伝説の猛ノックで選手を鍛えた。
明治大学でも監督に推す声が多く、常に島岡監督と監督の座を競った。しかし、[[1959年]][[8月13日]]に47歳の若さで死去。
==詳細情報==
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[[Category:岩手県出身の人物]]
[[Category:1912年生]]
[[Category:1959年没]]
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