「南大沢駅」の版間の差分

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=== 設置までの流れ ===
[[多摩ニュータウン]]開発計画に絡み京王帝都電鉄(当時)は、当初、[[京王相模原線|相模原線]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]延伸に際して途中駅を一か所設置することを計画で定め、「由木平駅」の設置を決定していた。その後、多摩ニュータウン開発の進捗に伴い、マスタープランの中で複数の開発住区に対する生活サービス施設を集積した「地区センター」の配置場所と定められた中間地点に、[[京王堀之内駅]]と[[多摩境駅]]の設置も追加で決定している。なお、当初計画の「由木平駅」は現在の南大沢駅に当たる。
 
なお、由木平駅設置に際して現在の場所が決定した理由は、[[京王多摩センター駅]]と[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]との中間地点に位置することと、ニュータウン計画で一帯が新住宅市街地開発事業地に定められ周辺に人家などがなく、白紙で駅を中心に「地区センター」とする大胆な街づくりが可能なことであった。また、当時の[[京王相模原線|相模原線]]計画では橋本延伸後に[[城山ダム#津久井湖|津久井湖]]方面に延伸する構想があったため、優等列車の追い抜きが可能な[[プラットホーム#形状と配置|島式ホーム]]2面4線設計で用地が確保された。
 
[[多摩センター駅|京王多摩センター]] - [[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]間の延伸工事のうち、当駅までの線路や駅の建設工事は比較的順調に進んでいたが、当駅と[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]間は用地買収などに手間がかかり全線開業が遅れることとなったため、同社はやむなく京王多摩センター - 当駅間を暫定開業させた。その最大の目的は、当駅南側の新住区で既に入居が始まっていて、代替の救済措置として暫定運行していた[[多摩センター駅]]までのバス連絡を一日も早く解消するためであった。
 
=== 設置後 ===
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[[東京都]]施行の[[新住宅市街地開発事業]]である「西部地区」では、[[1965年]]12月から山林部分の用地買収が行われ、[[1971年]]7月には当時の建設大臣から新住宅市街地開発事業の事業許可を得て、同年11月から集落部分の土地買収に着手した。その際に、谷戸部分も出来るだけ事業区域に含んで計画されることになったが、強制買収を可能とする新住宅市街地開発事業といえども相当数の家屋を有する状態となっていて、このために、既存住民の移住先となる大量の「優先分譲地」を確保する計画となった。これを受け、まずは1971年頃から、工事用道路の整備に加えて優先分譲地の先行整備が始められた。そして、大方の家屋移転が完了した後の[[1978年]]度から、本格的な土地造成に着手することとなった。<ref name="tamant_archive1_p244-253">『多摩ニュータウンアーカイブプロジェクト -第1編-』 多摩ニュータウン学会、2010年、p.244-253。</ref>
 
[[東京都]]と[[八王子市]]の協議では「多摩ニュータウン西部地区開発大綱」がまとめられ、これに沿って開発が進められた。そのなかで南大沢駅前には「西部地区センター」として20ヘクタール程度の土地が確保されることとなり、「商業業務施設や、その他公益的施設を整備する」ことが位置づけられた。そしてそのなかで[[京王相模原線]]は[[多摩センター駅]]から南大沢駅まで単に延ばすのではなく、一挙に[[横浜線]]の[[橋本駅 (神奈川県)|橋本駅]]まで延ばすという考え方も示された。<ref name="tamant_archive1_p244-253"/>
 
また同時に埋蔵文化財の調査では、勝手に発掘範囲が拡大されてたり、二重三重の発掘が始まって予想以上に時間がかかるなどし、土地造成に大きな支障がでる事態がいくつも発生していたことから、事前に遺跡の存在範囲を正確に確認するべく「基礎調査」が[[1976年]]から3か年にわたって行われた。結果、[[多摩ニュータウン]]全体で遺跡数883ヶ所、遺跡面積357ヘクタール、西部地区だけでも297ヶ所、100ヘクタールもの大量の遺跡が見つかり、いずれにしろ開発スケジュールの大幅なスローダウンは避けられないとして、新たに発見された遺跡のうち、重要そうで時間のかかりそうなところは土地利用変更で対処が行われることとなった。[[1977年]]から[[1978年]]の前半にかけて土地利用変更し、半年余りで建設大臣に「施行計画届出」が行われた。<ref name="tamant_archive1_p244-253"/>