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清朝編入後、台湾へは対岸に位置する[[中国]]大陸の[[福建省]]、[[広東省]]から相次いで多くの[[漢民族]]が移住し、開発地を拡大していった。そのために、現在の台湾に居住する[[本省人|本省系漢民族]]の言語文化は、これらの地方のそれと大変似通ったものとなっている。漢民族の大量移住に伴い、[[台南]]付近から始まった台湾島の開発のフロンティア前線は約2世紀をかけて徐々に北上し、19世紀に入ると[[台北]]付近が本格的に開発されるまでになった。この間、台湾は主に[[農業]]と中国大陸との[[貿易]]によって発展していったが、清朝の統治力が弱い台湾への移民には気性の荒い[[海賊]]や食いはぐれた貧窮民が多く、さらには[[マラリア]]、[[デング熱]]などの熱帯病や原住民との葛藤、[[台風]]などの水害が激しかったため、台湾では内乱が相次いだ。なお、清朝は台湾に自国民が定住することを抑制するために女性の渡航を禁止したために、台湾には漢民族の女性が少なかった。そのために漢民族と平地に住む原住民との混血が急速に進み、現在の「台湾人」と呼ばれる漢民族のサブグループが形成された。また、原住民の側にも平埔族(へいほぞく)と呼ばれる漢民族に文化的に同化する民族群が生じるようになった。
 
19世紀半ばに[[ヨーロッパ]]列強諸国の勢力が中国にまで進出してくると、台湾にもその影響が及ぶようになった。即ち、[[1858年]]に[[アロー戦争]]に敗れた清が[[天津条約 (1858年)|天津条約]]を締結したことにより、台湾でも[[台南]]・安平(アンピン)港や[[基隆]]港が欧州列強に開港されることとなった。1871年[[宮古島島民遭難事件]]が起こった。これは宮古、八重山から首里王府に年貢を納めて帰途についた宮古、八重山の船4隻のうち宮古船の1隻が台湾近海で遭難し、台湾上陸後に山中をさまよった生存者のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件である。日本政府は清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民(国家統治の及ばない者)」という返事があり、そのために[[1874年]]には[[日本]]による[[台湾出兵]](牡丹社事件)が行なわれ、1884年 - 1885年の[[清仏戦争]]の際には[[フランス]]の艦隊が台湾北部への攻略を謀った。これに伴い、清朝は日本や欧州列強の進出に対する国防上の観点から台湾の重要性を認識するようになり、台湾の防衛強化のために知事に当たる巡撫(じゅんぶ)職を派遣した上で、[[1885年]]に台湾を[[福建省]]から分離して[[台湾省]]([[1885年]]-[[1895年]])を新設した。台湾省設置後の清朝は、それまでの消極的な台湾統治を改めて本格的な統治を実施するようになり、例えば[[1887年]]に[[基隆]]―[[台北]]間に[[鉄道]]を敷設するなど近代化政策を各地で採り始めた。だが、[[1894年]]に[[清朝]]が[[大日本帝国]]と戦った[[日清戦争]]に敗北したため、翌[[1895年]][[4月17日]]に締結された[[下関条約]](馬關條約)に基づいて台湾は清朝から大日本帝国に割譲され、それに伴い台湾省は設置から約10年という短期間で廃止された。これ以降、台湾は大日本帝国の[[外地]]として[[台湾総督府]]の統治下に置かれることとなる。
 
=== 日本統治時代(1895年 - 1945年) ===