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[[兵庫県]][[明石市]]生まれで[[大阪府]][[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]出身。米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。姉は吉本興業創業者の[[吉本吉兵衛]](後に泰三と改名)の妻の[[吉本せい]]。弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた[[林弘高]]。実子は[[林マサ]]でその夫(娘婿)は[[林裕章]]。
 
[[1917年]]、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に総監督として入社し19歳で総監督となった。1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に初代の社長に就任。1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い会長も兼務した。1963年に体調を崩し[[大阪大学医学部附属病院]]に入院、持病の糖尿病と膀胱の疾患と診断されやも得ず社長から一旦退いたがき弟に林弘高に譲る、1970年に林弘高が脳梗塞で半身不随となり社長に復帰した。1973年には再び社長を退いたが、1986年にはまたも社長に復帰し、1991年に死去するまで社長を務めた。
 
[[桂春団治|初代桂春團治]]・[[横山エンタツ]]・[[花菱アチャコ]]等の多くの芸人を育て上げ、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させた。