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しかし、[[1950年]]の[[ノーザン・トラスト・オープン|ロサンゼルス・オープン]]大会において、ホーガンが事故のわずか11ヶ月後にトーナメントに復活を果たし、しかもプレーオフで[[サム・スニード]]に敗れはしたものの第2位の成績を収めた。
当時の高名なスポーツ記者、グラントランド・ライスは、この大会でホーガンが2位に終わったことを「彼は負けたのではない。彼の強烈な気力を支えられるほど、彼の両脚は強くなかったのだ」<ref>「ベン・ホーガンのゴルフ人生」ボブ・トーマス(1999)、220頁。「ベン・ホーガン 死の淵から蘇った男」カート・サンプソン(1998)、188頁</ref>と評した。
しかしながら、ホーガンは、これら評論家達の声を尻目に、復活からわずか5ヵ月後にメリオン・カントリークラブ18番ホールのプレーオフでロイド・マングラムとジョージ・ファジオを下し、自身2度目となる全米オープン優勝を達成した。また、この後もホーガンは、事故で痛めた片足を引きずりながらも、6つのメジャー大会を含むプロゴルフツアー (PGA) 12勝を達成している。
[[1953年]]に第17回[[マスターズ・トーナメント|マスターズ]]、第53回[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](オークモント、選手と観衆を
引退後は、ゴルフ・クラブ製造会社(その後、キャロウェイ社(Callaway Golf Company)が保有)を創立した。今日でも、彼の名前を冠したゴルフクラブは数多く製造、使用されている。一方、ホーガンが60代後半になるまで、シニアツアーは創設されなかったために、彼はこのツアーには参戦していない。晩年は[[アルツハイマー病]]に悩み、[[1997年]][[7月25日]]に84歳で逝去した。
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