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{{main|ノーフォークの先史}}
{{main|ノーフォークの歴史}}
ノーフォークにはローマ時代以前に定住がみられ<!-- was settled -->[[フリント]]の出土<!-- could be quarried -->する西部高地の[[新石器時代]]の遺跡([[グリムズ・グレイヴス]])が発見されている<ref>John Barwell, n.d. "[http://www.norfolkbroads.com/guide/history.htm ノーフォーク史]"</ref>。[[ブリトン]]人の一部族[[イケニ族]] が[[紀元前1世紀]]から紀元後[[1世紀]]までノーフォークに居住していた。イケニ族は[[ローマのブリテン島侵攻|ローマによる侵攻]]の侵攻に対し、47年と、[[ブーディカ]]が率いた60年の二度にわたり反乱を起こした。二回目の反乱は失敗に終わり、ノーフォークはローマ人が支配した。ローマ時代に道路と港が整備され、各地で農耕が始まった。
 
東海岸に位置するがゆえに、ノーフォークは[[スカンディナヴィア]]ならびに北ヨーロッパからの侵入の脅威にさらされており、[[アングル人]]や[[サクソン人]]に対する防御として砦が作られた。[[イースト・アングリア]]および[[イングランド]]という名の元になった[[アングル人]]は[[5世紀]]までにはこの地域の支配を確立し、後に「north folk」 (北村) と「south folk」 (南村)、すなわち 「Norfolk」(ノーフォーク) と「Suffolk」 (サフォーク) となった。ノーフォークは周囲の地域とともにイーストアングリアの王国となり、後には[[マーシア]]とあわせ[[ウェセックス]]となった。初期英語<!--the Early English settlers -->の影響は地名末尾の「thorpe」「ton」「ham」といった綴に見られる。[[9世紀]]には[[ヴァイキング]]からの攻撃を受け、[[エドマンド殉教王]]が殺害された。[[ノルマン・コンクエスト]]以前の数世紀にわたり東部の湿地は農地に転換され、人口の増加が見られた<!--and settlements grew in these areas-->。[[ドゥームズデイ・ブック]]の調査ではこの地域はブリテン島でも人口密度の高い地域の一つであり、ノルマン・コンクエストまでにはイーストアングリアへの移住が多数行われていたはずである。