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孫和の子達は、孫皓の生母である何姫によって養育されていたが、皇帝が孫亮から孫休に代わると、新都から呼び出され、長子の孫皓が烏程侯として復権した。孫皓が呉の皇帝として即位すると、父を'''文皇帝'''と諡し、墓の整備や郡の設置、廟の新設など名誉回復のための措置が施された。孫皓は父親を大変敬愛していたようで、皇帝になった時に父親を祀る祭りを立て続けに行い、近臣に「度重なる祀りは却って礼を損ないます」と止められるほどだった。また史官の[[韋昭]]に孫和の[[本紀]]を立てるよう命じたが、韋昭はそれを断った(孫和は皇帝ではないので本紀に入る資格はない)。このことが韋昭誅殺の原因であったともいわれる。
 
の他の子も、孫休が即位したときに赦免され、孫徳は銭塘侯・孫謙は[[永安]]侯・孫俊(張氏の子)は騎都尉となった。しかし孫謙と孫俊は、孫皓の時代にいずれも殺害されている。
 
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