「丙辰丸の盟約」の版間の差分

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こうして水戸が「破」、長州が「成」を役割分担すると決められた。しかし、あくまで[[幕政改革]]を行うことが目的で、[[幕藩体制]]そのものを揺らがせる[[倒幕運動]]を趣旨とするものではなかった。
 
遡ること2年前、[[1858年]]9月14日([[安政]]5年8月8日)に[[孝明天]]よりから下された『[[戊午の密勅]]』を尊皇の大義とし、[[御三家]]でありかつ[[副将軍]]と称された水戸藩側ではこの盟約でより負担の重い役柄を自的に選んだ事になった。水戸藩では尊王攘夷派([[天狗党]])と開国佐幕派([[諸生党]])の抗争が続き破の約が主流とはならなかったが、尊王攘夷派にとっては行動の目的として意識された。起点となった[[桜田門外の変]]に続く[[坂下門外の変]]、[[東禅寺事件]]、[[天狗党の乱]]等、水戸藩の破の約に関する行動は天下の耳目を集め、この盟約後、急転直下で成る[[明治維新]]の重要な[[マイルストーン]]を数多く残す事になった。
 
他方、水戸と同時期に皇室[[議奏]]・[[中山忠能]]と[[公卿]]・[[正親町三条実愛|三条実愛]]より『戊午南呂初五密勅』を下されていた<ref>御所警護の期待を記した内容の書状『戊午南呂密勅』が[[議奏]]・[[中山忠能]]と[[公卿]]・[[正親町三条実愛|三条実愛]]から、孝明天皇の内意を奉じたものとして長州藩へ送られた。[[毛利博物館]]蔵。[http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics7.html 山口県、維新史回廊トピックス〈Vol.7〉。2014年3月閲覧。]</ref>が[[外様大名]]であった長州藩側では、この盟約でより易き成の約を担うことになった。先ず長州では尊王攘夷派([[長州正義派|正義派]])と[[開国]][[佐幕]]派([[俗論党|俗論派]])の主導権争いの結果、開国佐幕派[[長井雅楽]]の[[航海遠略策]]が藩是となった。その後、[[八月十八日の政変]]や[[禁門の変]]を起こした尊王攘夷派は[[幕府]]による[[長州征討]]を被ったが、結果としての[[薩長同盟]]を経て長州藩は立場を翻し、[[倒幕運動]]へ傾斜することになった。こうして、長州藩側は当初の[[幕政改革]]という目的の趣旨を完全に逸脱したものの、成の約を[[藩閥|薩長藩閥]]の一角という別の形で実現させる道筋を得ることにもなった。
 
当の[[水戸藩]]出身で最後の[[将軍]][[徳川慶喜]]による[[大政奉還]]の結果として[[江戸幕府]]が巧みに破られ、当の[[長州藩]]出身の[[伊藤博文]]が[[明治新政府]]初代[[総理大臣]]と成り上がった結果は、この盟約がそれぞれの藩にとって敬幕の破・倒幕の成と正反対の宿命をもたらしたものの、極めて予見的な洞察であった事を示している。