「ジュリアーノ・デ・メディチ (ヌムール公)」の版間の差分

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[[image:Raffaello, giuliano de' medici.jpg|thumb|right|200px|ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ、[[ラファエロ・サンティ]]画]]
'''ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ'''(Giuliano di Lorenzo de' Medici, [[1479年]][[3月12日]] - [[1516年]][[3月17日]])は、[[イタリア]]の貴族・政治家。[[フィレンツェ]]の[[僭主]]。[[フランス王国|フランス]]の貴族として[[ヌムール公]]の爵位と所領を得た。フランス語名は'''ジュリアン・ド・メディシス'''(Julien de Médicis)。[[イタリア]]の[[メディチ家]]の一員で、[[ロレンツォ・デ・メディチ|ロレンツォ・イル・マニフィコ]]と妻クラリーチェ・オルシーニの三男として[[フィレンツェ]]で生まれた。長兄は[[ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ|ピエロ]]、次兄は[[教皇|ローマ教皇]][[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]となったジョヴァンニである。
 
父ロレンツォの死後、長兄ピエロが[[フィレンツェ共和国|フィレンツェ]]の[[シニョリーア|支配者]]であったが、享楽に耽って父の側近たちの離反を招き、またおりからイタリアに侵攻してきたフランス王[[シャルル8世(フランス王)]]に対する対応を誤って市民の信頼も失った。[[1494年]]にシャルル8世のフィレンツェに入城すると、メディチ家はついに亡命せざるを得なくなり、ジュリアーノは[[ヴェネツィア共和国|ヴェネツィア]]へ逃れた。[[1503年]]にピエロは死亡したが、[[スペイン]]が主導する[[神聖同盟 (16世紀)|神聖同盟]]以後、共和制を支持したフランス勢力は追われ、メディチ家は以前の権力を回復した。ジュリアーノは[[1513年]]から[[1516年]]までフィレンツェを治めた。また、次兄の教皇[[レオ10世(ローマ教皇)|レオ10世]]により教皇軍総司令官に任じられている。
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しかしジュリアーノは、政務に励むよりも文人や芸術家と交わったり、[[パトロン]]活動を行うなど華やかな文化人、宮廷人であった。友人には[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]、[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]、[[ルドヴィーコ・アリオスト]]、[[フランチェスコ・デル・ジョコンド]]などがいた。
 
[[1515年]]、[[サヴォイア公国|サヴォイア公]][[フィリッポ2世・ディ・サヴォイア|フィリッポ2世]]の娘でフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の母方の叔母[[フィリベルタ・ディ・サヴォイア|フィリベルタ]]とフランス宮廷で結婚。次兄のとりなしにより、フランス王フランソワ1世はジュリアーノにヌムール公位を授けた。フランス側はジュリアーノを[[ナポリ王国|ナポリ]]王位につけようと考えていた(ナポリは歴史的にフランス王が興味を示してきた王国だった)。ジュリアーノが急逝すると、フィレンツェの実質的支配者僭主の地位は甥[[ロレンツォ2世・デ・メディチ|ロレンツォ]]となっに受け継がれた。
 
フィリベルタとの間に子供がなく、庶子[[イッポーリト・デ・メディチ|イッポーリト]]が一人いたのみだった。イッポーリトは長じて[[枢機卿]]となった。