「藤原頼嗣」の版間の差分

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4年後の[[康元]]元年([[1256年]])8月に父頼経が死去し、続いて頼嗣も9月25日、[[赤斑瘡]]により死去。[[享年]]18。
 
結果的に父と共に北条家とは対立関係となったが、執権[[北条時頼]]は頼嗣の教育に熱心であり、[[中原師連]]と[[清原教隆]]が学問を、[[小山長村]]、[[安達義景]]、[[三浦光盛]]、[[三浦盛時]]が武術を、それぞれ頼嗣に教えるように推挙している<ref>高橋・100頁</ref>。この他にも、御家人達の若い息子達から、好学の子らを、頼嗣の学友として近侍させようと考え、[[二階堂行方]]、[[武藤景頼]]にそうした人材を集めるよう手配している<ref>高橋・100頁</ref>。頼嗣も勉学への意欲は高く、1250年2月には[[帝範]]の勉強会を頼嗣は行い、時頼や清原教隆が参加していることが『[[吾妻鏡]]』に書かれている<ref>高橋・100頁</ref>。この後、時頼は頼嗣に『[[貞観政要]]』を書写したものを送っている。頼嗣に貞観政要を学んでほしいという願いから進呈したものと考えられる<ref>高橋・100頁</ref>。
 
== 官歴 ==