「南関東公営競馬」の版間の差分

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人材の面でも従来の各競馬場や[[羽田競馬場]]系はもとより、大井競馬場では高崎出身の塩野七郎門下が一大派閥を形成し<ref>啓衆社『競週地方競馬』1955年7月号。</ref>、また戦前は東海地方を拠点に[[武田文吾]]らに対して「'''東の山本'''」<ref>養子入り前の旧姓が山本だったことによる</ref>と謳われた[[栗田金吾]]も大井で厩舎を開業するなど、関東一円、さらには全国各地から人材が集まった。さきほど挙げた濠サラ購買に当たって実地に飛んだ[[得居喜一]]も、[[陸軍騎兵学校]]出身の元中佐であり、戦前は軍馬購買にその手腕を発揮した人物である<ref>啓衆社『競週地方競馬』1961年4月号。</ref>。さらには[[ケイシュウニュース|啓衆社]]の創業者であった[[白井新平]]は戦前に引き続き地方競馬との繋がりを保ち、[[1960年]]より[[中央競馬]]の[[啓衆社賞]]の南関東版といえる[[公営日本一]]を制定するなどしている。
 
[[競走馬]]についても、[[サラブレッド]]は高額の賞金を狙う[[国営競馬]]、[[中央競馬]]からの移籍馬がおおむね上位を形成していたが<ref>著名な移籍馬として[[タカオー]]、[[スウヰイスー]]、[[サチホマレ]]、[[オリオンホース]]、[[ヤシマナシヨナル]]など。</ref>、早くも[[1951年]]には[[川崎競馬場|川崎]]の抽選馬出身の[[キヨフジ]]が[[国営競馬]]へ移籍し[[優駿牝馬]]を制している。その後は[[ゴールデンウエーブ]]、[[ダイゴホマレ]]、[[オンスロート]]、[[タカマガハラ]]などが[[中央競馬]]へと移籍して華々しい戦績を残したほか、[[船橋競馬場|船橋]]の[[出川巳代造]]調教師が管理した[[ダイニコトブキ]]、[[ダイサンコトブキ]]らは生え抜きのサラブレッドとして[[東京ダービー (競馬)|春の鞍]]と[[東京大賞典|秋の鞍]]を制覇するなど活躍。[[1964年]]からは[[東京王冠賞]]が創設されたことで[[三冠 (競馬)|南関東三冠]]が成立したが、[[1967年]]にこれを初めて達成した[[ヒカルタカイ]]は翌年中央競馬へ移籍すると、[[天皇賞|天皇賞(春)]]で2.8秒差の大差勝ちを収めている。また[[アングロアラブ]]では早々に[[ホウセント]]、[[フクパーク]]の活躍により[[中央競馬]]に[[地方競馬]]の自由購買馬が参戦できなくなったことから、全国の地方競馬場の強豪らが賞金の高い南関東へと集まった<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第2巻』地方競馬全国協会、1974年、59頁。</ref>。[[タカトシ (競走馬)|タカトシ]]、[[ミヤマシユーホー]]、[[タガミホマレ]]、[[センジユスガタ]]などがその代表例である。中には[[トモスベビー]]、[[センジユ]]、[[アデルバウエル]]らのように、サラブレッド系競走へと挑戦し挑戦勝利するような名馬も表れた。
=== ハイセイコーと低迷の時代 ===
[[1972年]]、[[大井競馬場]]でのちに国民的アイドルホースとして[[競馬ファン|第一次競馬ブーム]]を担う[[ハイセイコー]]がデビューする。8戦8勝で[[ハイセイコー記念|青雲賞]]を制したのちに[[中央競馬]]へと移籍していったこのハイセイコーの活躍に推されて南関東競馬も売上を伸ばし、1973年度には総売上が2000億円を突破した<ref>地方競馬全国協会『地方競馬史 第4巻』地方競馬全国協会、1993年。</ref>。ところが、これ以後は70年代を通じて[[第一次オイルショック]]の[[狂乱物価]]によるインフレにもかかわらず額面上の売上増は鈍化し、[[1980年]]の約2445億円をひとつのピークとして減少に転じる。そして[[1984年]]には、1800億円を割るまでに落ち込んだ<ref>同上</ref>。