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[[ファイル:Ferenc József koronázása Budán.jpg|250px|thumb|ハンガリー王に即位する[[フランツ・ヨーゼフ1世]]と[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト妃]]]]'''アウスグライヒ'''(「和協」「妥協」、'''Österreichisch-Ungarischer Ausgleich''', ハンガリー語: '''Kiegyezés''')とは、[[オーストリア帝国]]において[[1867年]]に実施された協定ないし一連の政策を指す。それまで名目上は[[ハプスブルク家]]の[[オーストリア皇帝]]が一元的に支配してきた[[ハプスブルク君主国]]を[[オーストリア帝冠領]]([[ツィスライタニエン]])と[[ハンガリー王冠領]](トランスライタニエン)に二分し、それぞれの領域を別々の政府が統治する事が定められた。一方でオーストリア皇帝はハンガリー国王を兼ねる存在([[同君連合]])とされ、軍事・財政・外交面は依然として皇帝が直轄した。この結果成立した新体制を[[オーストリア=ハンガリー帝国]]もしくは二重帝国と呼ぶ。
 
== 歴史 ==
[[中世]]においてオーストリアは[[ハプスブルク家]]が世襲的に支配していた[[神聖ローマ帝国]]内の一領邦に過ぎず、[[ハンガリー王国]]はそもそも帝国の支配下に無かった。転機となったのは[[1526年]]の[[モハーチの戦い]]で[[オスマン帝国]]軍がハンガリー王国軍に大勝した事で、この結果ハンガリー領はハプスブルク家とオスマン帝国によって分割され、ハンガリー王位もハプスブルク家の下へ継承された。以後[[1806年]]に至るまでオーストリアとハンガリー王国は[[同君連合]]の関係にあったものの名目上ハンガリーで別々独自政府・議会・法律が維持され、両は共通の君主を戴く事で緩やかに統合されているに過ぎなかった。
 
[[1803年]]に行われた[[帝国代表者会議主要決議]]においよって神聖ローマ帝国が実質的に崩壊すると、新たに[[オーストリア帝国]]が成立したものの、ハンガリーの置かれた状況は変化しなかった。1840年代にヨーロッパを席巻した自由主義の影響を受けた[[ハンガリー革命 (1848年)|ハンガリー革命]]は失敗に終わったものの、[[マジャール人ロシア帝国]]の間で芽生え支援を受け[[民族主義]]オーストリアによって鎮圧され、ハンガリー帝国それまで保持していた独自安定財政権脅かし剥奪されたものの結果アウスグライヒへと繋がる事にそれ以上の措置は取られかった
 
1867年、時のオーストリア帝国は、[[イタリア統一戦争]]・[[普墺戦争]]等の[[戦争]]に敗北し、[[外交]]においては[[ロシア帝国]]との関係を悪化させ、その世界的地位を低下させてきた。そのような中、多民族国家であるオーストリア帝国内の諸民族は活発に自治・権利を獲得するための運動をしていた。連邦的改変を求める声が諸民族からあがったが、権利を失いたくない支配者階級の[[ドイツ人]]の抵抗と国色の変化を恐れた[[皇帝]][[フランツ・ヨーゼフ1世]]の反対もあり、[[マジャール人]]([[ハンガリー人]])と協力して帝国内の諸民族を抑えることとした。このドイツ人とハンガリー人との妥協をアウスグライヒという。