「聖パトリック勲章」の版間の差分

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== 騎士団の構成 ==
=== 騎士団員 ===
聖パトリック騎士団の主権者はイギリス君主である。アイルランドにおける君主の代理である[[アイルランド総督]] (ロード・レフテナント)|アイルランド総督 (the Lord Lieutenant of Ireland)]] はグランド・マスター (the Grand Master) を務めていた。<ref>1783 Statutes, Article II, quoted in [[#Nicolas|Nicolas]], p.9.</ref> アイルランド総督の役職は1922年に廃止され、最後の総督とグランド・マスターは初代ダーウェントのフィッツアラン子爵[[エドモンド・フィッツアランハワード (初代ダーウェントのフィッツアラン子爵)|エドモンド・フィッツアラン=ハワード]]{{enlink|Edmund Fitzalan-Howard, 1st Viscount Fitzalan of Derwent}}であった<ref>[[#Galloway|Galloway]], p.103.</ref>。
 
騎士団は初め、15人の騎士と主権者(イギリス君主)で構成されていた{{#tag:ref|Nicolas<ref>[[#Nicolas|Nicolas]], p.9</ref> から1783年規則の前文。Galloway<ref>[[#Galloway|Galloway]], p.17</ref> によれば、もとは16人の騎士と主権者とすることが計画されていたが、ジョージ3世はチャペルにおいて割り当てられた16の席のうち1つを自身が確保するために15人としたという。|group=注}}。1821年には[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]は6名を新たに騎士に叙任したが<ref>[[#Nicolas|Nicolas]], p.37.</ref>、これを認める[[ロイヤル・ワラント]](勅許礼状)を彼は1830年まで出さなかった。1833年に[[ウィリアム4世 (イギリス王)|ウィリアム4世]]が正式に規則を変え、騎士の定数を22とした<ref>[[#Galloway|Galloway]], p.269.</ref>。
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ガーター騎士団のものを原型とする最初の規則では、騎士団員の欠員は主権者の指名によって埋めるべきと定められていた。各々の騎士は9人の候補者を提案し投票をおこなった。候補者について、3人は伯爵以上の爵位を保有していなければならず、3人は男爵以上、さらに3人は騎士以上でなければならなかった。実際には常にこのシステムが使われていたわけではなく、グランド・マスターが貴族を候補者に指名した場合は主権者は通常それに同意し、新しい団員を「選定する」会議が開かれた<ref>[[#Galloway|Galloway]], p.26.</ref>。
 
聖パトリック騎士団はこれまでに貴族と王族のみが叙されているという点で、イングランドのガーター騎士団やスコットランドのシッスル騎士団とは異なっている。君主以外の女性が聖パトリック騎士団に叙されることはなかった。一方、ガーター騎士団は女王以外の女性騎士団員がいない期間(1509年 - 1910年<ref group="注">[[ヘンリー8世 (イングランド王)|ヘンリー8世]]により女性への叙勲は女性君主のみとされたが、エドワード7世によって女性への叙勲が再開された。</ref>)があったが、制定当初から女性も叙任されており、シッスル騎士団も女性の叙任が制度化されたのは1987年ではあるが、それ以前にも女性が叙任された例はある。
 
なお、1871年までは[[聖公会]]派に属する[[アイルランド国教会]]がアイルランドの国教であり、騎士団としてもこれにわっていたにもかかわらず、騎士団の歴史を通じて数人のカトリック教徒が騎士団員に任命されている<ref group="注">たとえば初代オヘイガン男爵である[[トマス・オヘイガン (初代オヘイガン男爵)|トマス・オヘイガン]]や、第4代サウスウェル子爵である[[トマス・サウスウェル (第4代サウスウェル子爵)|トマス・サウスウェル]]が挙げられる。[[#Galloway|Galloway]], p.69 によれば、カトリック教徒が最初に騎士団に任命されたのは1821年である。</ref>。
 
=== 役職 ===