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[[1567年]]([[永禄]]10年)、[[小寺氏]]の家臣・黒田孝高に正妻として嫁いだ。孝高は側室を持つことはなく、[[1568年]](永禄11年)に[[黒田長政]]、[[1582年]]([[天正]]10年)に[[黒田熊之助]]を産んだ。
 
[[織田信長]]の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、[[毛利氏]]攻めなどの先鋒を務める。ところが、[[1578年]]([[天正]]6年)3月、播磨国の[[別所長治]]が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋伊則もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は[[織田信雄]]の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、[[別所氏]]の[[神吉城]]が落とされると、同年8月10日に父・伊定櫛橋氏は降伏した。降伏の際に志方城主は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害したといわれるが、父・伊定とも兄・伊則ともいわれており詳細は不明なお、の子は許されて、後に[[黒田氏]]に仕えた。
 
その後、夫・孝高は[[豊臣秀吉]]の腹心として活躍し、[[豊前国]]中津12万石の[[大名]]になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。[[1600年]](慶長5年)の[[関ヶ原の戦い]]が起こると、[[石田三成]]が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、[[細川ガラシャ]]が拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち([[栗山利安]]、[[母里友信]]、[[宮崎重昌]])によって、光や長政室・[[栄姫]]は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の[[豊前国]][[中津城]]まで船で脱出した。