「近親婚」の版間の差分

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== 近親婚の歴史 ==
=== 近親婚の禁止 ===
[[中国]]においては[[周]]代以降の慣習で[[同姓不婚]]の原則がある<ref>{{cite web|url=http://www.njmuseum.com/rbbook/gb/25/weishu/weis008.html|title=魏书 帝纪第七 高祖纪上|publisher=[[南京博物院]]|accessdate=2011-08-08|language=中国語}}</ref>ものの、[[前漢]]で[[恵帝 (漢)|恵帝]]が同母姉・[[魯元公主]]の娘である[[張皇后 (漢恵帝)|張氏]]を皇后ことより[[武帝 (漢)|武帝]]が父の母姉・館陶長公主の娘である[[陳皇后 (漢武帝)|陳氏性婚]]自体皇后に、また[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]で[[孫権|大帝]]が父方の従兄・[[徐コン|徐琨]]の娘であ避け徐氏を夫人に、[[孫休|景帝]]が異母姉・孫魯育ある朱氏を皇后に、[[南北朝時代 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]同姓間[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が父方の叔母・新蔡公主を貴嬪にしていた例がある。漢風の習俗の浸透度が弱かった[[匈奴]]、[[南北朝時代 (中国)|北朝]]、[[遼]]、[[元 (王朝)|元]]の皇帝にも、[[いとこ近親]]などの例が見は避けられる。
 
[[朝鮮]]では、[[李氏朝鮮]]が建国理念である[[性理学]]的イデオロギーを基盤に同姓同本不婚制を一貫して堅持した。この制度は[[20世紀]]にも[[韓国]]で引き続き施行されており、[[1997年]]に8親等以内に縮小された。<ref name="hokudai">{{cite journal|author=三宅 勝|year=1996年|month=10月|title=韓国の同姓同本不婚制に関する背景と課題|journal=北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル|publisher=[[北海道大学]]|volume=3|pages=305-333|naid=110000562183|url=http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/22279/1/3_P305-333.pdf|format=PDF|accessdate=2011-08-08}}</ref>
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[[ファイル:King Chulalongkorn and Queen Saovabha.jpg|thumb|250px|王妃サオヴァバ(左)と異母兄にしてタイの国王のラーマ5世(右)の夫婦の写真]]
[[タイの国王]]である[[ラーマ5世]]は数人の異母妹と結婚しているが、ラーマ5世の場合は迎えた妻の数がかなり多く、数人程度では子孫の多様性の妨害にはならないという事情もあった。
 
中国では同姓不婚の原則に基づいて異姓間の近親婚が行われる例が見られる。[[前漢]]で[[恵帝 (漢)|恵帝]]が同母姉・[[魯元公主]]の娘である[[張皇后 (漢恵帝)|張氏]]を皇后に、[[武帝 (漢)|武帝]]が父の同母姉・館陶長公主の娘である[[陳皇后 (漢武帝)|陳氏]]を皇后に、また[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]で[[孫権|大帝]]が父方の従兄・[[徐コン|徐琨]]の娘である徐氏を夫人に、[[孫休|景帝]]が異母姉・孫魯育の娘である朱氏を皇后にしていた例がある。[[南北朝時代 (中国)|南朝]][[宋 (南朝)|宋]]の[[前廃帝 (南朝宋)|前廃帝]]が父方の叔母・新蔡公主を貴嬪にしていた同姓の近親婚の例も見える。漢風の習俗の浸透度が弱かった[[匈奴]]、[[南北朝時代 (中国)|北朝]]、[[遼]]、[[元 (王朝)|元]]の皇帝にも、いとこ婚などの例が見られる。
 
朝鮮では、[[新羅]]で[[骨品制]]の考えから神聖なる天降種族の血の純潔性を尊ぶため王族間の通婚が行われた他、[[高麗]]時代初めにも[[光宗 (高麗王)|光宗]]の王后が異母妹の大穆王后皇甫氏といった具合に 王室では近親婚が盛んに行われて異母兄弟姉妹婚も行われた。<ref name="hokudai"/>