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[[白河天皇|白河院]]は第四番目の『後拾遺和歌集』編纂ののち、ふたたび勅撰和歌集の編纂を計画し、[[源俊頼]]一人に編纂の[[院宣]]を下した。俊頼は勅撰集編纂の事業に取掛かり、 [[天治]]元年(1124年)のころに『金葉和歌集』を完成させた。
 
ところがそうして出来た『金葉和歌集』は、白河院の奏覧に供するも俊頼のもとへ返されてしまった。そこで俊頼は天治2年4月頃、内容を改訂して再び奏覧する。しかしこれもまた白河院には受け入れられず俊頼のもとへと返された。[[大治 (日本)|大治]]元年(1126年)か翌年の頃、更に内容を改めたものを俊頼は奏覧し、それがようやく白河院のもとに納められた。しかしこの三度目の奏覧本は清書される前の俊頼自筆の稿本で、「造紙」(草紙=冊子本)の形態であった。勅撰集はほんらい巻子本の装丁で奏覧するのが正式とされていたが、それを内々に白河院が目にして納められたのである。
 
これにより『金葉和歌集』には、大まかに分けて3種類の系統の伝本がある。すなわち最初に奏覧した本を「初度本」と称し、二度目に奏覧した本を「二度本」、そして三度目に奏覧して納められたものを「三奏本」と称している。撰集経緯からすれば三奏本を最も正式のものとすべきであるが、三奏本は人知れず宮中に秘蔵されたままとなり、二度本が早くに流布し主流の本文とされ、現在に至っている。