「ロバート・サウジー」の版間の差分

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同じ年、サウジーはコールリッジら数人とアメリカで理想主義的なコミューンを作ることを話し合った。「人々の望みは素朴で無理のないものだろう。贅沢の虜になった人たちが苦しんでするような労役ではない。財産は共有されていて、各々が全員のために働く。小さな家の中には最良の本が場所を占めているだろう。気持ちを引き立たせる生活と自然の流れに浸されて、文学と科学は生き返り、浄化されざるを得ないだろう。若い男性はやさしく愛らしい女性を娶ろうとするに違いない。二人の清浄な食べ物を用意するのは女性の方で、二人は逞しく美しい人生に至る」。このコミューン計画は後にウェールズに場所を移して再度持ち上がるが、サウジーはうまくいきそうにないとして、この考えを否定するグループのトップであった。
 
[[1795年]][[11月14日]]、サウジーはブリストルのセント・メアリー・レッドクリフ教会([[:en:St Mary Redcliffe]])でエディス・フリッカーと結婚した。エディスはコールリッジの妻サラ・フリッカーの姉妹だった。サウジーは[[湖水地方]]の[[ズィック([[:en:Keswick, Cumbria]]のグレタ・ホールに居を構え、細々とした収入で暮らした。[[1808年]]、サウジーは、ウェルター・サヴェジ・ランドール([[:en:Walter Savage Landor]])と知己を得た。ランドールは以前から著書の中でサウジーを賞賛していた。二人はお互いの作品を賞賛し合い、大の親友になった。[[1809年]]からサウジーは『クォータリー・レヴュー』誌([[:en:Quarterly Review]])に寄稿をはじめ、[[1813年]]にはかなり名を知られるようになり、サー・[[ウォルター・スコット]]が辞退した桂冠詩人のポストを得た。
 
[[1819年]]、友人のジョン・リックマン([[:en:John Rickman]])を通じて、サウジーは土木技師のトーマス・テルフォード([[:en:Thomas Telford]])と知り合い、二人は親友となった。その年の8月中旬から[[10月1日]]まで、[[スコットランド]]の[[ハイランド地方|ハイランド]]の広範囲にわたるテルフォードの土木計画旅行に、サウジーは同行し、そこで見聞きしたことを日記にしたため続けた。それはサウジーの死後、[[1929年]]に『Journal of a tour in Scotland in 1819(1819年のスコットランド旅行日記)』として出版された。さらにサウジーはオランダの詩人ウィレム・ビルデルデイク([[:en:Willem Bilderdijk]])の友人で、[[1824年]]と[[1826年]]に2度、[[ライデン]]にあるビルデルデイクの家を訪問した。