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その後、学区制が採用されて選手を集めにくくなったことや、グラウンドその他の設備の不十分さなどから限界を感じ、1980年、全県から選手を集められ、学校が所有する広大な敷地を自由に使う許可を出してくれた[[沖縄県立沖縄水産高等学校|沖縄水産高校]]に転任した{{sfn|沖縄を変えた男|p=188}}。
 
転任後数年は、[[比屋根吉信]]率いる[[興南中学校・高等学校|興南高校]]の後塵を拝したものの、[[第66回全国高等学校野球選手権大会|1984年夏]]に初出場を果たす<ref group = *>ただしこの時の監督は栽ではなかった。地元のアマチュアボクシング協会会長との対談時の写真が無断で広告に使われたことで、高野連から1年間の謹慎処分を受けたため、83年秋から、コーチが監督代行として指揮をとっていた。このコーチは豊見城時代から長年栽を支えてきたが、この甲子園の後、突然栽と決別を余儀なくされ、ライバル[[沖縄県立那覇商業高等学校|那覇商業]]の監督に就任した。</ref>{{sfn|沖縄を変えた男|p=207-212,250-258}}と、その後は1985年に入学した[[上原晃]]の活躍も加わり、1988年まで5年連続で夏の甲子園に出場するなど、黄金時代を築いた。沖縄水産でもなかなかベスト8の壁を破れなかったが、[[第70回全国高等学校野球選手権大会|1988年夏]]に初めてベスト4に進出すると、[[第72回全国高等学校野球選手権大会|1990年夏]]・[[第73回全国高等学校野球選手権大会|1991年夏]]に2年連続で決勝戦に進出、沖縄県勢として悲願の全国制覇は惜しくもならなかったが、2回の準優勝を果たした。
 
しかし、1992年に不祥事のため夏の沖縄県大会出場を辞退して以降、成績が下降線をたどり、結果として、1991年夏の準優勝以後は甲子園出場は春夏合わせて4回にとどまった(勝利は[[第68回選抜高等学校野球大会|1996年春]]の1勝のみ)。