「アテルイ」の版間の差分

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その後に編成された[[大伴弟麻呂]]と[[坂上田村麻呂]]の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の[[胆沢郡]]、[[紫波郡]]の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は[[802年]](延暦21年)、[[胆沢城]]を築いた。
 
『[[日本紀略]]』には、同年の[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に[[平安京]]に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、[[8月13日 (旧暦)|8月13日]]に[[河内国]]にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない<ref>『日本紀略』の写本における地名の異同は、『日野昭博士還暦記念論文集:歴史と伝承』掲載の神英男論文に詳しい。</ref>。「植山」について、[[枚方市]]宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があった<ref>吉田東伍『大日本地名辞書』</ref>が、発掘調査の結果、宇山の丘は[[古墳]]だったことが判明し、枚方市山を山とする説は消えた。
 
== 現代のアテルイ像 ==