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== 生涯 ==
[[信濃国]][[上水内郡]](現在の[[長野市]])出身といい、また同郡[[風間 (長野市)|風間]]の[[式内社]]である[[風間神社]]庄の[[荘官|庄司]]家を出自と伝えられる<ref>『新潟県史蹟名勝天然記念物調査報告書 第5号』。</ref>。風間氏の築城とされる[[村岡城]]やその城主館の発掘調査による検証や、信昭が風間氏の菩提寺として[[徳治]]2年([[1307年]])に[[相模国]]名瀬(現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[戸塚区]]名瀬)に開基したと伝える[[日蓮宗]]法王山[[妙法寺 (長岡市)|妙法寺]]<ref>信昭が帰依していた[[六老僧|日蓮六老僧]]の[[日昭]]上人を開山に招いて創建したと伝える(元の名瀬には経王山[[妙法寺 (横浜市戸塚区)|妙法寺]]が現在も存続している)。下記参考文献1 の5頁。</ref>をさらに[[元亨]]3年([[1323年]])に至ってこの寺を同国村田(新潟県[[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[和島村]]大字村田(現在の[[長岡市]]))に移転した伝承などから、鎌倉時代末期のこの頃までに信昭とその一族は信濃国から越後国に入ったと推定される<ref>参考文献の1、14頁による。</ref>。
 
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、[[足利尊氏]]が[[建武政権]]に背くと信昭は舎弟・村岡三郎とともに[[新田義貞]]軍に属して、同11月南朝方の越後勢に加わり各地に転戦、[[色部高長]]等の北朝勢に抗戦したが旗色は振るわず、[[延元]]2年/建武4年([[1337年]])に[[松本市|信濃府中]]、延元3年/[[暦応]]元年([[1338年]])には[[北陸道]]にも出陣したが、総大将の新田義貞が[[越前国]]藤島([[福井市]]新田塚)における戦いに討死したのを機に信昭等は越後に帰国した。