「額田郡一揆」の版間の差分

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== 一揆の経過 ==
『今川記』によれば一揆の発生した当時の三河では、将軍家御一家たる吉良氏が東条家・西条家に分かれて対立抗争を繰り返し、国内の[[国人]]・[[地侍]]衆も両派に分かれて幾度も戦っていたという。この結果、吉良氏惣領の西条家(上吉良とも)の権威は失墜し、これらの国侍達は西条家側・東条家側のみならを問わ、そ吉良氏の下知に従う者ほとんど居なくなる状況であった。
 
こうした中で、寛正6年の三河額田郡内において、大場次郎左衛門・丸山中務入道父子・梁田左京亮等の侍たちが井口砦(岡崎市井ノ口町)に籠居して武装蜂起し、[[京都]]の幕府の威令に服さず近郊の[[尾張国]](守護は[[斯波氏]])・[[駿河国]](守護は今川氏)にも音信は無く、ただ「鎌倉殿」=[[古河公方]][[足利成氏]]の命であると称して、域内の主要な道を封鎖して京都への租税等官物を奪うなどの狼藉を働いていたという。このため幕府は、同年[[4月29日 (旧暦)|4月29日]](新暦[[5月24日]])付けで奉書を発して三河[[守護]][[細川成之]]に鎮圧を命じ、成之は三河に発向し、国内の有力[[国人]]である西郷六郎兵衛・牧野出羽守の両名にも出陣を命じた。[[西郷氏]]・[[三河牧野氏|牧野氏]]は数百の軍勢で三日三晩、一揆側の本拠地・井口砦を攻めて陥落させたが、なぜか一揆の大将分を全て取り逃してしまった。