削除された内容 追加された内容
フォット (会話 | 投稿記録)
sty,dab,lk先しかない節に{{リンクのみの節}}
編集の要約なし
33行目:
[[1949年]]、興行で[[青森県]]に行き、現地の[[風土病]]に罹患。それが元で[[1949年]][[10月26日]]下谷病院にて死去。享年56。墓所は足立区[[常福寺 (足立区)|常福寺]]。[[戒名]]は正恵院釈讃良意居士。
 
[[林家正蔵 (9代目)|9代目林家正蔵]]は孫にあたる。弟子に治助(のちの[[橘家圓蔵 (7代目)|7代目橘家圓蔵]])、[[柳家富士朗]]、[[柳家三太楼]](現:紙切り師[[林家今丸]]の実父)、[[春風亭小柳枝 (7代目)|7代目春風亭小柳枝]]、[[柳亭市馬#三遊亭市馬|三遊亭市馬]](「ロセンの市馬」)等がいた。実子・三平も末期の弟子であるが、育てきる前に7代目が亡くなったことから、7代目圓蔵門下に移籍した。
 
== 8代目 ==
[[1895年]][[5月16日]]生まれ。本名は岡本義(おかもと よし)。3代目[[三遊亭圓楽]]、5代目[[蝶花楼馬楽]]を経て襲名。[[東京府|東京府下]][[荏原郡]]品川町(現在の[[品川区]])出身。生前は[[落語協会]]所属。後述する三平の死後に名跡を7代目と三平の遺族に譲り、自らは'''林家彦六'''を名乗った。俗に「'''彦六の正蔵'''」。
{{リンクのみの節}}
 
歴代正蔵の大多数と同じく怪談噺、芝居噺を得意としたが、これは8代目の元の大師匠の弟弟子であり、明治期から昭和初期まで活躍した落語家[[三遊亭一朝|三遊一朝]]から教わったもの。8代目は個人的にも一朝を尊敬しており、前々名の圓楽は、元々一朝の名跡である。
 
7代目とは、8代目が小さん門下に移籍して以降、従兄弟弟子の関係にあたる。
 
{{Main|[[林家彦六]]}}
 
== 9代目 ==
9代目は、7代目正蔵の孫にして初代林家三平の実子こぶ平(本名海老名泰孝)が、[[2005年]][[3月21日]]襲名。襲名パレードでは12万人以上の人が[[上野 (台東区)|上野]]・[[浅草]]に集まった。[[石原プロモーション|石原プロ]]の全面協力(三平と[[石原裕次郎]]が親交が深かったため)。祖父7代目没後、本来は実子である父三平が継ぐところだったが修行年数が2年と短かったため名跡を[[林家彦六|5代目蝶花楼馬楽]]に貸与したもの。三平は前座名のまま[[1958年]]真打に昇進し、[[1980年]][[9月20日]]死去
 
8代目の孫弟子、[[春風亭小朝]]は元義兄。
 
{{Main|[[林家正蔵 (9代目)]]}}
 
 
== 初代林家三平と、正蔵の名跡 ==
前述の通り、元々の「林家正蔵」の系統は5代目を持って断絶し、以後はその時々の落語家の名跡争いなど問題が影響となる形で、「都合の良い名跡」として振り回される運命にあった。
 
7代目が名跡を継承して暫くして、7代目と一時期名跡が競合状態にあった「8代目柳家小三治」は落語家を廃業し、協会事務員となっていた。柳家一門の総帥、[[柳家小さん (4代目)|4代目柳家小さん]]は、8代目の早い廃業で空き名跡となった小三治を、7代目[[柳家小きん]]へと襲名させた。
 
この7代目小きん改め9代目小三治と、当時5代目馬楽であった8代目は、4代目小さん死後、元兄弟弟子として「小さん」の襲名を争う。結果、[[桂文楽 (8代目)|8代目桂文楽]]の強力な後ろ盾を得ていた9代目小三治が勝利し、[[柳家小さん (5代目)|5代目柳家小さん]]となった。
 
対する8代目が手に入れたのが、この襲名劇の前年に7代目が死去し空き名跡となっていた林家正蔵である。従って、7代目と8代目は、柳派の大名跡「小さん」と、その出世名跡「小三治」が関わる名跡争いにより、「林家正蔵」を同門異系譜の落語家遺族から手に入れるという、類似した境遇を歩んだ。
 
しかしながら7代目と8代目との間で異なったのは、7代目には現役の落語家である実子・三平がおり、遺族(特に7代目の妻・三平の母)が三平の正蔵襲名を強く望んでいたことである。当時三平は修行年数が2年と短かったためとても正蔵を名乗れる状態になかったものの、結局8代目は、7代目遺族から「一代限り」として「貸与」の形で正蔵名跡を譲り受け、襲名した。
 
8代目は約束を守り、弟子には一部を除き「春風亭」など林家とは異なる亭号を名乗らせ、将来的に三平に正蔵の9代目を譲る予定でいた。三平の母は三平の真打昇進に伴い名跡返還を要求。これに対し8代目は尊敬する三遊一朝の名を襲名し、三平に正蔵名跡を譲る予定であった。しかし三平自身は8代目を立て、「師匠の宜しいまでお名乗り下さい」と説得、結局三平は前座名のまま[[1958年]]真打に昇進した。
 
三平にはその後、5代目小さんより奇しくも「柳家小三治」の襲名を提案されたこともあったが、結局「三平」を維持し、単なる前座名を一代で育て上げた。その後、三平は8代目に先立つ形で[[1980年]][[9月20日]]死去。
 
三平の死後も存命であった三平の母ら7代目や三平の他の遺族と、8代目の関係性はこの後、悪化した。また義理を守る意思もあり、8代目は7代目・三平遺族に名跡を「返還」し、以後はその死去まで「林家彦六」を名乗った。
 
なお、三平の死後に真打に昇進した8代目の弟子は、林家の亭号を名乗ったままであった。この他、三平から気に入られていた[[林家木久扇]]も、亭号を維持している。
 
一方、当初8代目が襲名するとしながらも結局されなかった「一朝」の名は、8代目の孫弟子が「[[春風亭一朝]]」として引き継いだ。
 
9代目の襲名に際して、三平から9代目の育成を引き継いだ[[林家こん平]]は病身にあり、8代目の弟子である木久扇と、同じく孫弟子で義兄であった小朝が、9代目の後見役となっている。そのためかつての7代目遺族と8代目の関係はともかく、現在の三平一門と8代目一門の関係は比較的良好である。
 
余談ではあるが、[[笑点]]の[[大喜利]]メンバーのうち、木久扇が8代目の弟子、[[林家たい平]]が三平の孫弟子である。また[[三遊亭好楽]]の元は8代目門下で真打となり、8代目の死後はかつて8代目がその名を譲った[[三遊亭圓楽 (5代目)|5代目三遊亭圓楽]]の門下に移籍した。その5代目圓楽生え抜きの弟子で、名を継いだのが[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目圓楽]]である。従って、大喜利メンバーのうち[[落語協会]]並びにそこから分裂した[[円楽一門会]]の人間は、皆「林家正蔵」に関係した者たちで構成されている。
 
また、三平の師である7代目橘家圓蔵は元々8代目文楽と7代目の門下を行き来している。この圓蔵の名跡は、元々8代目の[[橘家圓蔵 (4代目)|二番目の師匠]]が名乗ったものであり、この師の叔父弟子が三遊一朝である。8代目が小さん門下に移ったのは師匠の死によるもので、7代目圓蔵自体は圓蔵の名跡の元の所属先である三遊派とは無関係であった。
 
元々三遊派である圓蔵、そして8代目が正蔵を名乗る原因となった5代目小さん襲名問題、これら全ての問題の源流として挙げられるのは8代目桂文楽その人である。彼の協会内における卓越した「'''政治力'''」こそが、今やこれらの名跡が揃って柳派に属する遠因となっている。
 
今となっては、正蔵の元の名がどこに属するかについては完全に曖昧になってしまった。東京・林家一門から分派した上方・林家一門も一度断絶し、[[松鶴一門|笑福亭一門]]から分離した[[林家染丸一門|林家染丸の系統]]がこれを継いでいる。
 
{{DEFAULTSORT:はやしや しようそう}}