「修正主義」の版間の差分

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修正主義は1895年、[[ドイツ社会民主党]]のシェーンランクが初めて唱えた。続いて[[エドゥアルト・ベルンシュタイン]]は1896年から1898年まで『Neue Zeit』(ノイエ・ツァイト)紙に連載した論文を『社会主義の諸前提と[[社会民主主義]]の諸課題』(1899年)にまとめ、修正主義を系統づけた。その特徴として、[[暴力革命]]、[[プロレタリア独裁]]、[[プロレタリア国際主義]]、[[階級闘争]]をいずれも否定し、[[中産階級]]の重視、[[議会制民主主義]]の枠内で[[福祉]]政策の推進を説いた点が挙げられる。この論文によってドイツ社会民主党は、創成期から抱えてきた日常レベルでの体制適応と理想としての[[革命]]という、現実と理想の乖離を初めて解決することができた。しかし、これは社会主義陣営の分裂を招き、党の[[綱領]]として認められるのは1959年の[[バート・ゴーデスベルク綱領]]を待たねばならなかった。現在では世界の多くの[[共産党]]や社会主義政党が議会主義に則った方針を綱領に取り入れてほとんど主流を占めている。修正主義を支持してきた者の一部はこれを教条主義から修正主義へと転じたものであると解釈している。
 
イタリアではフランスの[[ジョルジュ・ソレル]]の[[:it:Sindacalismo rivoluzionario|革命的サンディカリズム]]に影響を受けた[[:it:Arturo Labriola|アルトゥーロ・ラブリオーラ]]や[[:it:Enrico Leone|エンリコ・レオーネ]]らによってベルンシュタインらと対照的に革命的な暴力と階級闘争を重視する一方で国際主義や[[唯物論]]を修正した[[:it:Revisionismo del marxismo#Italy|革命的修正主義]]と呼ばれる運動が台頭し<ref>Zeev Sternhell: ''The Birth of Fascist Ideology: From Cultural Rebellion'', 2001, pp.92</ref><ref>[[大杉栄]]『ベルグソンとソレル』</ref><ref>Zeev Sternhell: ''The Birth of Fascist Ideology: From Cultural Rebellion'', 2001, pp.92</ref><ref>Enrico Leone, La revisione del marxismo , Roma, Biblioteca del Divenire sociale, 1909</ref>、これは結果的に[[ファシズム]]を創始する[[ベニート・ムッソリーニ]]に影響を与えた<ref>Marco Piraino e Stefano Fiorito "L'identità fascista" (Lulu, 2008); Domenico Settembrini "Fascismo controrivoluzione imperfetta" (SEAM, 2001), Ernst Nolte, "Il giovane Mussolini. Marx e Nietzsche in Mussolini socialista", Sugarco 1997.</ref>。
 
[[正統派マルクス主義]]や[[マルクス・レーニン主義]]、[[共産主義]]者の間においては[[侮蔑|蔑称]]として、[[レッテル]]貼りの言葉として用いられ、[[:en:Anti-Revisionism|反修正主義]]が掲げられた。例えば、[[中華人民共和国|中国]]は1960年代前半、[[平和共存]]と呼ばれる米ソ緊張緩和などを実行した[[ソビエト連邦|ソ連]]を修正主義的であるとして非難した(一方のソ連は中国のそのような姿勢を「[[教条主義]]」として非難した)。また、[[計画経済]]の失敗から、柔軟な[[調整政策]]と呼ばれる[[経済政策]]を実行した[[劉少奇]]、[[トウ小平|鄧小平]]らが1960年代になって権力を奪われた時も、「修正主義的であること」が罪状とされた。