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[[律令法]]において罰金を課する[[贖銅]]制度が存在していたが、律令法が衰退して刑罰が緩やかになると軽微な犯罪を「[[過怠]]」と称して実刑の代わりに金銭などを徴収して神社や寺院、道路、橋梁などの修繕費用の一部とすることで神仏や社会に対する反省の証とした。この際に支払われた金銭を「過怠銭」「過怠料」などと称し、後にこれを略して「過銭」「過料」とも呼んだ。[[御成敗式目]]第15条において裁判で虚偽の証言したことが発覚した者に対して寺社の修理を命じており、これを補うために出された[[追加法]]においても、「過代物」([[寛元]]2年([[1244年]])第231条)・「過料」([[建長]]5年([[1253年]])第292条)の名称が用いられている。「過料」や「過怠銭」またはそれに類する内容の財産刑は[[荘園]]における[[本所法]]や[[戦国大名]]における[[分国法]]、あるいは民間における[[法慣習]]としても行われていた。
 
[[江戸幕府]]においては『[[科条類典]]』に[[享保]]3年([[1718年]])に白紙の手形と引換とした借金契約を結ばせた貸主に初めて過料を課したという記述があることから、[[徳川吉宗]]の[[享保の改革]]の一環として過料が導入されたという学説が存在していたが、[[元和 (日本)|元和]]2年[[10月13日 (旧暦)|10月13日]]([[1616年]])付で出された煙草に関する禁令には既に煙草栽培を行った農民及び同地の代官に過料を課しており(『[[東武実録]]』)、江戸幕府初期から過料は個別の法令で行われていた。もっとも、徳川吉宗が定めた『[[公事方御定書]]』によって過料の体系化が行われたのも事実である。同法によれば過料には3貫文もしくは5貫文の(一般的な)「過料」、10貫文の「重き過料」、本人の財力に応じた「身上に応じ過料」、本人の家の規模(財力に準じる)に応じた「小間に応じ過料」、地域単位で罰する場合[[石高]]に応じた「村高に応じ過料」の5つの事例に整理され、賭博や売春をはじめ軽微な犯罪に対する刑罰として用いられた。なお、納付期限は原則として言い渡されてから3日以内とされ、その期間内に納付されない場合には代替として[[手鎖]]の刑が課された。更に[[戸〆]](謹慎)などと過料が併せて課される場合もあった。『公事方御定書』以後従来の過酷な刑罰を緩和する意味で実刑の代替として過料たは他刑との二重仕置が課される事例が増加していくようになった。また、[[藩法]]や[[村法]]などにおいても過料が行われており江戸時代を通じて広く行われていた。
 
刑罰(財産法)としての過料は[[明治]]2年([[1869年]])に[[明治政府]]が定めた『[[新律綱領]]』によって一旦廃止されて旧律令法の贖銅制度に基づく罰金制度に変更されたが、明治13年([[1880年]])の[[旧刑法]]によって刑罰である科料と分離された現行の過料が改めて設置されることとなった。