「プラハのアダルベルト」の版間の差分

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[[ポーランド王国]]のボレスワフ1世王(ボレスワフ公は1025年に[[ポーランド王]]となっていた)の死後まもない時期の1039年、当時のボヘミア公[[ブジェチスラフ1世]]([[:en:Bretislaus I of Bohemia]])は聖アダルベルトの聖遺物を[[グニェズノ]]から取り戻し、プラハへ持ってこさせたとされる。ところが、実際のところはポーランド人がチェコ人の態度を警戒して遺体を隠しその一部だけをチェコ人に渡したのだとも言われている(ポーランドの書物 ''Roczniki Polskie'' による)。実際のところ1000年にボレスワフ王が[[神聖ローマ皇帝]][[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]にアダルベルトの腕の骨一本を渡しており、その骨は1928年になってグニェズノで保管されている聖遺物の中に加えられた。
 
現在、聖アダルベルトの墓は、ポーランド・[[ポズナン]]近郊のグニェズノ市にあるグニェズノ大聖堂とチェコ・プラハの[[聖ヴォイテク教会]]の2箇所にある。これに関しては、一度はアダルベルトをボヘミアを追い出しておきながら後になってその聖遺物を返せと言い出したチェコ人の態度に呆れ返っていたポーランドの[[カジミェシュ1世]]が、まったく別人の遺体を聖遺物だと称してチェコ人に渡したと伝えられており、これは ''Roczniki Polskie''「ポーランド年代記」 の記述と整合しうる。実際に聖アダルベルトのものとされる頭蓋骨がポーランドのグニェズノ大聖堂とチェコのプラハの教会の2箇所にある。
 
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