「フェリックス・デ・アサーラ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Xapones (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
5行目:
[[ウエスカ県]]{{仮リンク|バルブニャーレス|es|Barbuñales}}に生まれた。[[スペイン陸軍|陸軍]]に入隊し、軍事大学に入学した。エンジニアとして、多くの[[探検]]に参加した。13年間、[[軍籍]]にあり、[[准将]]まで昇進した。
 
1777年に、スペインと[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の間で[[{{仮リンク|第一次サン・イルデフォンソ条約|en|First Treaty of San Ildefonso|label=サン・イルデフォンソ条約]]}}が結ばれ、[[新大陸]]のポルトガルとスペイン植民地の間での国境紛争調停の交渉するために[[リオ・デ・ラ・プラタ]]への交渉代表団に選ばれ、新大陸に出発した。ポルトガルの代表団は、到着せず、アサーラは1781年から1801年まで、新大陸に留まった。時間をつぶすために、地域の正確な[[地図]]の作成を試み、そのなかで自然を観察を始めた。448種の[[鳥類]]を記載し、性別の違いなどの重複を整理して381種を研究し178種の鳥類を同定した。78種の四足動物を調べ、43種が新種であった。ヨーロッパに戻る前に、[[パリ]]のスペイン[[大使]]を務める、兄のホセ・ニコラス・デ・アサーラ(José Nicolás de Azara)に観察記録を送り、1901年にパリで、『パラグアイの四足動物の自然史研究』("''Essai sur l'histoire naturelle des quadrupèdes du Paraguay''")として出版された。1902年に"''Apuntamientos para la Historia natural de los cuadrúpedos del Paraguay y Río de la Plata''"を出版した。ヨーロッパに戻った後、兄のいるパリで1809年に『1781年から1801年の、アメリカ旅行』("''Voyage dans l'Amerique meridionale depuis 1781 jusqu'en 1801''")を出版した。兄の死の後、スペインに戻り、いくつかの役職を務めた。
 
アザーラの著作は批判もあったが、受け入れられた。[[ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォン|ビュフォン]]の[[博物誌 (ビュフォン)|『博物誌』]]の多くの誤りを正そうとしたもので、ビュフォンへの批判が過剰に見られるが、[[チャールズ・ダーウィン]]らによって高く評価された。