「日本ユニバーサル航空」の版間の差分

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[[1991年]]([[平成]]3年)[[1月10日]]に[[日本航空]]の[[子会社]]として設立され、当初から[[ヤマト運輸]](現・[[ヤマトホールディングス]])・[[日本通運]]も資本参加していた(その後他の物流各社も出資)。本社があった第二鉄鋼ビルは当時日本航空の東京支店(1階に発券カウンター)が入居していたビルで、そこに間借りする形を採っていた。同年日本航空から[[ボーイング747#747-200F型|ボーイング747-200F]]1機([[機体記号]]:JA8160)をリース導入し、フルカラー塗装とした。
 
そして同年[[10月16日]]に[[東京国際空港|羽田]] - [[新千歳空港|新千歳]]間の不定期貨物便の運航を開始したが<ref name="hokkaido-np-1991-10-16">“日本ユニバーサル航空の第1便新千歳に到着”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1991年10月16日)</ref>、翌月11月26日には[[羽田名古屋空港発着枠|羽田空港の発着枠名古屋]]不足で多数 - 新千歳間便運行運航することができず、ま開始し[[バブル景気#<ref name="hokkaido-np-1991-11-26">“日本ユニーサ崩壊|バブル崩壊]]で景気後退に陥ったことなど航空貨物便、北の幸乗せ名古屋へ-新千歳から1年ほどで運航停止に追い込まれた開始”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1991年11月26日)</ref>
 
しかし、[[羽田空港発着枠|羽田空港の発着枠]]不足で多数の便を運航することができず、また[[バブル景気#バブル崩壊|バブル崩壊]]で景気後退に陥ったことなどから1年ほどで運航停止に追い込まれた<ref name="hokkaido-np-1992-10-1">“好評だった競走馬空輸…再開望む関係者”. [[北海道新聞]] (北海道新聞社). (1992年10月1日)</ref>。
 
== 塗装 ==
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フルカラー塗装されたJA8160の[[垂直尾翼]]には[[シンボルマーク]]の[[クジラ]]が描かれていた。このクジラはIATA2レターコードのYUから「ゆーちゃん」の愛称があった。運航停止後もしばらくの間はこの塗装でJALの貨物便(主に[[成田国際空港|成田]] - [[香港]]線<ref>当時は[[啓徳空港|啓徳国際空港]](啓徳國際機場)に発着。[[啓徳空港#香港アプローチ/香港カーブ|香港アプローチ]]で着陸するJUSTカラー機を見ることができた。</ref>および成田 - [[サンフランシスコ国際空港|サンフランシスコ]]線<ref>往復とも[[テッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港|アンカレッジ]]経由で[[北アメリカ|北米]]発着の貨物便は全てここを経由する([[テクニカルランディング]])。</ref>)に就航していた。このJA8160はJAL生え抜きの機体ではなく、[[1982年]]([[昭和]]57年)に[[パンアメリカン航空]]から購入したものである([[1979年]]製造、元N905PA/Clipper Golden Eagle号)。そのため同機のモデルネーム(ボーイング社顧客番号21はパンナム向け、46は日本航空向けである)は747-2'''21'''Fとなっている。パンナムがこの時、貨物輸送事業から撤退に伴う放出のタイミングでJALが中古機として導入した。なお、JA8160は[[2007年]](平成19年)9月に退役しており、その後アメリカの貨物航空会社[[カリッタ・エア]] ({{interlang|en|Kalitta Air}})に転売された。
 
<!--== 関連項目 ==
*[[日本航空]]
-->
*[[ヤマト運輸]]
 
== 脚注 ==