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'''中川 久貞'''(なかがわ ひささだ)は、[[豊後国|豊後]][[岡藩]]の第8代藩主。
 
[[享保]]9年(1724年)1月19日、[[三河国|三河]][[三河吉田藩|吉田藩]]主・[[松平信祝]]の次男として生まれる。[[寛保]]3年([[1743年]])に第7代藩主・[[中川久慶]]が死去したため、その養子として12月21日に家督を継いだ。同年12月28日に従五位下、修理大夫に叙任する。養子になった際、名を'''信安'''から久貞と改めた。
 
[[延享]]元年([[1744年]])から無名の[[浪人]]である[[中沢三郎左衛門]]を登用し、不正の取り締まりや農村振興、人事の一新などを行なって、藩政改革に一応の成功を収めた。しかし[[宝暦]]3年([[1753年]])に天候不順による凶作で[[原尻奥之丞]]によって[[強訴]]を起こされ、宝暦5年([[1755年]])には大水害で3万80008,000石の被害を出した。宝暦6年([[1756年]])には大火、[[明和]]6年([[1769年]])には大雨や地震で6万石の被害を出し、明和8年([[1771年]])にも大火による被害を出した。さらに久貞自身が実父と同じように[[老中]]になろうと盛んに運動資金を幕府に供出したため、藩財政が悪化してしまった。
 
このため、[[天明]]6年([[1786年]])から[[井上並古]]を登用し、助合制度の設置や郷村再建、[[藩札]]発行による財政改革を行なうが、効果は無かった。また、由学館や経武館、博済館など[[藩校]]の創設も行ない、文治教育の普及に尽力し、相次ぐ災害で苦しむ領民に対して窮民養成所を創設している。