「ボビー・ジョーンズ (ゴルファー)」の版間の差分

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その自制心に富むプレー態度から、'''球聖'''(きゅうせい)と呼ばれたゴルフ史を代表する伝説のゴルファー。彼は終生、[[アマチュア]]を貫いたことでも有名である。[[1921年]]6月、19歳で全英オープン(セント・アンドルーズ、予選:エデンコース、本選:オールドコース)に初挑戦して、強風の本選3日目に最初の9ホールだけで10オーバーの46を叩き、10番ホールもダブルボギー、11番ホール(パー3)もティーショットをバンカーに入れ、脱出に3打で4オン、ダブルボギーパットも外して茫然自失、6打目のパットを打たずに棄権した。これをジョーンズは終生、痛恨の記憶とした。[[1925年]]の第29回全米オープン(ウォーセスターカントリークラブ)では、初日の11番ホールで、ジョーンズは「アドレスの際、ラフにあったボールが動いた」と申告し、自らに1打罰を課した(現行規則18条2項b)。同伴プレイヤーの[[ウォルター・ヘーゲン]]は「誰も見ていないので、ペナルティは必要ない」と進言したが、ジョーンズは「銀行で金を盗まなかったからといって誰も褒めない。ゴルファーとして当然の行為である」と聞き入れなかった。この一打で最終的には[[ウィリー・マクファーレン]]とのプレイオフとなり、1度目の18ホールのプレイオフでは決着がつかず、2度目のプレイオフの最終18番ホールでボギーを叩き、1打差で敗れた。
 
アマチュアでありながら実力は[[プロゴルファー|プロ]]を上回るほどで[[1930年]]、28歳のときに当時の世界4大タイトルを[[全英アマチュアゴルフ選手権|全英アマ]](セント・アンドルーズ開催、マッチプレイ形式で18ホールの7試合を行った後、36ホールの決勝戦を実施)、[[全英オープン (ゴルフ)|全英オープン]](ロイヤルリバプール)、[[全米オープン (ゴルフ)|全米オープン]](インターラッセンカントリークラブ)及び[[全米アマチュアゴルフ選手権|全米アマ]](メリオンゴルフクラブ)の順に優勝し、[[グランドスラム (ゴルフ)|年間グランドスラム]]を達成した。スポーツ界において「[[グランドスラム]]」という言葉が用いられたのはこれが最初とされる。6月20日、全英オープン最終日のジョーンズは不調であったが、16番ホールのグリーン手前のバンカーからの第3打で[[ホートン・スミス]](第1回マスターズ優勝者)から譲り受けたフェース面が凹面のウェッジ(現在は違法)を生涯唯一度試合で使用して、ピンそば2インチに寄せてバーディを奪い、って優勝争いに残ってり、この日75を叩くも、2位グループに2打差の通算291、3オーバーパーで優した。同年、全米アマチュア最高の賞である第1回[[ジェームスサリバン賞]]を受賞し、年間グランドスラム達成の7週間後、28歳で競技生活から引退した。
 
[[1923年]]に有名な「カラミティ・ジェーン」という名のパターを手に入れ、初のメジャータイトルである全米オープン(インウッドカントリークラブ)を制した。大会前のジョーンズはショット、パットがともに不調で、大会の1週間前にコーチのスチュアート・メイドンに連れられ、ナッソーカントリークラブに立ち寄った。ラウンド後、練習グリーンにいたジョーンズに、スチュアートの兄であり、このゴルフ場所属のプロであるジム・メイドンが自分で製作したヒッコリーシャフトの中央部3カ所にテープが巻かれているパターを手渡した。ジョーンズが打ってみると、実によく入り、早速借用して、翌週の全米オープンに勝利した。翌年、ジョーンズはシャフトにテープを巻いた同じ型のものを作らせ、それを1930年の年間グランドスラムまで愛用、さらに6本同型のコピーを発注した。ジム・メイドンは自分で作ったクラブには必ず名前をつけた。カラミティはゴルフ史家ロバート・ブラウニングの著作「History of Golf」中の文「ショートパットを外したときは最悪のカラミティ(災難)であり、ロングパットを成功させるとカラミティから最も離れる」から採用、ジェーンは西部開拓時代のヒロインの名前であった。シャフト中央部のテープは、シャフトにひびが入っていたのを修繕するためのものであった。ジョーンズは全英オープンに計4度挑戦したが、カラミティ・ジェーンを入手してからは3戦全勝であった(24歳で臨んだ[[1926年]]の予選はサニングデールゴルフクラブのオールドコースで33ショット33パット、アウト33イン33の66を記録して突破、本選は全英初開催のロイヤルリザム&セントアンズで72-72-73-74の291で2位に2打差で英国メジャー初優勝。[[1927年]]は棄権から6年後のセント・アンドルーズで予選76-71・本選68-72-73-72の285で2位グループに6打差での優勝であり、[[1955年]]に[[ピーター・トムソン]]が281で優勝して更新するまで4日間通算の全英オープンコースレコードであった。1930年は年間グランドスラムの2勝目であり、前述)。1930年の全英オープン後、米国へ帰国する際、ジョーンズはカラミティ・ジェーンも入っていたゴルフバッグをロンドンのホテルに置き忘れたが、無事速やかに手元に戻った。ジョーンズのクラブのヒッコリーシャフトは1000本以上から厳選された物で、このセットを失っていたら、年間グランドスラムはあり得なかったであろう。