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政権奪取後には、金俊が崔氏に続く新しい武臣政権の首班となって権力を振る回った。これに国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]は、[[林衍]](イム・ヨン、[[:zh:林衍|中国版]])ら不満勢力を集め、[[1268年]]に金俊を暗殺した。
 
しかし、また林衍はモンゴルとの関係で元宗と対立<ref>林衍は強硬派、元宗は講和派であった。</ref>、1269年に国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]を廃して政権を掌握した。元宗およびその子・[[忠烈王]]の要請を請けたモンゴルは林衍討伐のため進軍し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。[[1270年]]5月に林衍の子の[[林惟茂]](イム・ユム)([[:ko:임유무|ko]])らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。
 
モンゴルの支援を受けた元宗は[[江華島]]から[[開城]]へ戻り、武臣政権の私兵集団として国内騒擾の元凶ともなってきた三別抄に対しては解散を命じた。これに対して、三別抄の裴仲孫(ペ・チュンソン)、夜別抄の盧永禧らは宗室の承化公・[[王温]]([[:zh:王溫 (承化侯)|中国版]])を推戴し、江華島を本拠に自立した。