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[[モンゴル]]の諸民族を統一して成立した[[モンゴル帝国]]([[1271年]]に[[クビライ]]によって国号を[[元 (王朝)|大元]]とした)は、[[1219年]]に高麗と同盟を結ぶが、モンゴルが高麗に貢納の要求などをしたことで両国の関係が悪化し、1231年に[[モンゴルの高麗侵攻|第一次高麗侵攻]]が開始された。高麗軍は各地で苦戦を強いられ、[[1232年]]には[[開城]]を放棄し、[[漢江]]河口の[[江華島]]への遷都を余儀なくされる。その後もモンゴルによる断続的な侵攻が行われて高麗は衰退の一途をたどる中、[[金俊]](キム・ジュン)([[:ko:김준 (고려의 무신)|ko]])を主体に崔氏政権に対する[[クーデター]]が勃発、[[1258年]]に崔氏政権は滅亡する。
 
政権奪取後には、金俊が新しい武臣政権の首班となったが、彼はモンゴルへの入朝を拒否し<ref>金俊はモンゴルの使臣を殺し江華島からもっと遠くの島に入る計画まで立てていた。だがその計画は、高麗が既に長い戦争によって疲弊であったため高麗王から頑強に拒絶される。</ref>、王以上の権力を振る回ったため、自身に敵対的な勢力を作ってしまう。これに国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]は、{{仮リンク|林衍|zh|林衍|}}(イム・ヨン)ら不満勢力を集め、[[1268年]]に金俊を暗殺した。
 
しかし、林衍らは実権の掌握を企図して元宗と対立、1269年に国王[[元宗 (高麗王)|元宗]]を廃して政権を掌握した。そうすると、元宗の要請を請けたモンゴル軍が林衍討伐のため進撃し、林衍は三別抄を動員して抵抗するが、その最中に急死した。[[1270年]]5月に林衍の子の[[林惟茂]](イム・ユム)([[:ko:임유무|ko]])らが国王側に雇われた三別抄によって暗殺され、ここに高麗王朝に実権を握り続けてきた武臣政権は崩壊した。