「ハーバート・フーヴァー」の版間の差分

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[[キャンパス]]の上流階級気質に反して、余り裕福でない経歴を持つフーヴァーであったが、他の生徒に押される形で彼自身何の知識もない[[学生自治会]]の会計係に選出され、2,000ドルに及ぶ自治会の[[負債]]を拭い去ることに成功した。
 
フーヴァーは[[地質学]]を専攻して、ジョン・キャスパー・ブラネル教授の下で勉強をした。ブラネル教授は彼のために夏休みの間[[アーカンソー州]]の[[オザーク山脈]]で地形の[[地図]]を作る仕事を与えた。彼は同じ研究室にいた、後に妻となる銀行家の娘であるルー(ルイ-ズ)・ヘンリーとそこで出会い、[[1899年]]に結婚し、2人の息子、長男ハーバート(1903-69) 1969年)、二男アラン(1907-93)に恵まれ 1993年)をもうけている。2人とも、[[スタンフォード大学]]を卒業している。
 
[[1895年]][[5月]]、フーヴァーに知識と職業、妻を与えてくれたスタンフォード大学を卒業し、とりわけスタンフォードはアメリカ西部の身寄りのない人にとって家族代わりとなるに相応しい場となったと言われた。
 
卒業後、彼は[[オーストラリア]]の[[鉱山]]で鉱山技師として働き始め、その後[[清|中国]]で鉱山の開発に従事した。[[1900年]][[6月]]には[[天津市|天津]][[租界]]で[[義和団]]によって、1ヶ月もの間包囲され、攻撃を受けている。妻が慈善施設で働いている時、彼はバリケードの建設を指揮し、ある時は中国の子どもを命がけで救っている。
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