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7月卒業となったのは、高校の卒業試験を受けている時、カンニングの発覚を恐れて教師の前で答案を破り卒業保留処分を受けたためである<ref>平岡正明『人之初』p.61-63</ref>。もともと卓球推薦で日本大学に進むことが内定していたが、これにより推薦取消となり、1960年、古林尚の勧めで早稲田大学の第一文学部と第二文学部のそれぞれ露文科をロシア語で受験、後者に合格。二文露文科在学中、[[共産主義者同盟|ブント]]の一員として[[60年安保]]闘争に参加。やがてブントから脱退して1961年11月に[[宮原安春]]らと政治結社・犯罪者同盟を結成。[[1963年]]、同盟機関誌の単行本『赤い風船あるいは牝狼の夜』を刊行したところ、同書に収録した[[吉岡康弘]]撮影の無修正ヌード写真が問題となり、[[猥褻図画頒布]]の容疑で[[警視庁]]から指名手配を受け、[[戸塚警察署 (東京都)|警視庁戸塚警察署]]に逮捕されたが、[[起訴猶予]]となる。この『赤い風船』事件は早大の教授会でも議題となり、そのために「犯罪者同盟は『赤い風船』事件で退学にされた」と言われたこともあるが、平岡が後に除籍処分を受けたのは学費未納が原因であり、赤い風船事件とは無関係であった<ref>平岡正明『人之初』p.185</ref>。なお、『赤い風船』に[[赤瀬川原平]]の「千円札を写真撮影した作品」が掲載されていたことから、「[[千円札裁判]]」が起きるきっかけになった。
 
[[1964年]]、『韃靼人宣言』([[現代思潮社]])で評論家デビュー。[[1966年]]4月、[[石井恭二]]の世話で[[ラボ教育センター|株式会社テック]]開発部づき雑誌編集部門に入社。このとき、同社の専務に[[谷川雁]]がいた。[[1967年]]の『ジャズ宣言』(イザラ書房)からジャズ評論の分野にも進出。[[1969年]]2月、講談社『ヤングレディ』誌のアンカーマンとなる。同年2月、[[康芳夫]]の誘いで天声出版に入り、[[澁澤龍彦]]の後任者として『血と薔薇』第4号(天声出版)を編集。また、[[谷川雁]]・[[吉本隆明]]の「自立学校」事務局、[[谷川雁]]の[[ラボ・パーティ|ラボ教育センター]]などを転々とする。一方、「犯罪者同盟」以来のアナーキーな行動や著作で、新左翼系文化のカリスマ的存在となる。[[1970年]]には、[[松田政男]]、[[足立正生]]、[[佐々木守]]、[[相倉久人]]と「批評戦線」を結成し、雑誌『第二次・映画批評』を創刊した。また、[[1970年代]]に入ると「[[水滸伝]]」をヒントにして、[[太田竜]]、[[竹中労]]らと[[窮民革命論]]を唱え、“新左翼三バカトリオ”と呼ばれたこともある。[[1971年]]、谷川との決裂は平岡を支援する文化人や、平岡を慕う若者達を巻き込んだ「テック闘争」と呼ばれる騒動に発展した<ref>『でもわたしには戦が待っている』 風塵社、2004年、p58~60、p74~81</ref>。[[1972年]]、[[ポンペイ島|ミクロネシア・ボナペ島]]の軍属の遺児ダニエル・ロペスが戦後補償を求めて来日した際にこれを支援。この運動を契機に[[朝倉喬司]]、[[船戸与一]]、[[布川徹郎]]らとミクロネシア独立運動に身を投じた<ref>[http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=2996&syosekino=3359 稀代のノンフィクション作家が逝く――朝倉喬司とその時代をふりかえる][[図書新聞]]、[[伊達政保]]、2011年1月1日</ref>。
 
1970年代後半以降の新左翼の退潮後は、主に文学や芸能の評論の分野で活躍。論評対象は、[[筒井康隆]]、[[五木寛之]]、[[山田風太郎]]、[[山口百恵]]、[[河内音頭]]、[[三波春夫]]、[[大山倍達]]など。特に筒井康隆とは個人的にも親交を結び、筒井論も多数執筆している。また、1990年代には3000枚に及ぶ大長編小説「皇帝円舞曲」を執筆。これは、自身や知人をモデルにして、三浦半島の独立と日本との戦争を描いた現代版水滸伝だが、女性はほとんど性奴隷か食料にされるなど、書きたい放題の怪作である。