「ムジャーヒディーン」の版間の差分

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[[アフガニスタン]]で1978年に[[アフガニスタン人民民主党]]による共産政権が成立すると、各地で組織された反政府ゲリラが蜂起した。彼らは自分たちの闘争をアフガニスタンのイスラームを防衛するジハードと位置付け、自らムジャーヒディーンと名乗った。代表的な組織には[[ブルハーヌッディーン・ラッバーニー]]が組織し、[[アフマド・シャー・マスード]]が軍事的に率いた「[[イスラーム協会]]」や、[[グルブッディーン・ヘクマティヤール]]が率いる「[[ヒズビ・イスラーミー]](イスラーム党)」などがある。[[1979年]]に[[ソビエト連邦]]軍が軍事介入すると、ムジャーヒディーンはこれにも対抗した。彼らは[[パキスタン軍統合情報局]]などからの支援を受け、ソ連軍に激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャーヒディーンには、アフガニスタンのみならずイスラーム世界の各地から[[志願兵]]として若者が集まってきたが、その中心人物が[[アブドゥッラー・アッザーム]]で、[[ウサーマ・ビン=ラーディン]]もその志願兵の1人だったということが知られている。
 
アメリカも[[アメリカ中央情報局|CIA]]を通じてこのようなゲリラ組織に武器や装備を提供していた([[サイクロン作戦]])。<!--有名なものでは[[スティンガーミサイル|スティンガー対空ミサイル]]などが提供されていた。が、東側の兵器に比べメカニズムが高度かつ高価であるため、損耗しても修理や補充がきかず次々に失われていったようである。ただし、西側製の装備は上掲のスティンガー<ref>当時、旧ソ連製の[[SA-7]]はカンボジア駐留ベトナム軍から多数流出しており入手は容易だったが、SA-7には航空機からの[[フレア (兵器)|フレア]]放射で効果的に防御されてしまう欠点があり、駐留ソ連軍も早期にフレア投射による防御を行っていた事から、SA-7供与の効果は低いと考えられていた。また、ムジャーヒディーンによって撃墜されたヘリは中国製の高射機関砲によるものが大半と言われており、熱源追尾機能が正常に動作するスティンガーも初期に供与された数本だけで、拡散を恐れた示威的な要素が大きい供与だったとも言われている。</ref>や通信機器<ref>ムジャーヒディーンが装備した無線機や建設用重機、ピックアップ・トラックなどは、大半が日本製のものだった。[[アフマド・シャー・マスード|マスード]]司令官などは、根拠地としたパンジシール渓谷から産出する宝石や貴石などを、日本の甲府へ持ち込んで現金化し、日本でこうした装備を購入していた。</ref>など代替が難しいものに限られ、現実的には[[AK-47]]や[[RPG-7]]など旧ソ連系の兵器<ref>これらの兵器は、ソ連と対立しながらソ連系兵器体系を保持していた諸国から調達されていた。初期においては、[[北朝鮮]]から中東・アフリカのイスラーム圏諸国へ輸出されたものが転売・供与されたものが多かったが、1982年頃から日本の対中援助で技術力・品質が一挙に向上した[[中華人民共和国]]の製品が増えた。中東で唯一、ソ連系兵器を国産していた[[エジプト]]は、1981年に[[サダト]]大統領がイスラム原理主義者に暗殺され、国内でのテロ活動も頻発していたため、同じ原理主義者が多く参加していたムジャーヒディーンへの兵器供与には消極的だった。
</ref>が供与されていた。ムジャーヒディーンはこれらの援助に対する見返りの手段の一つとして、自分たちがソ連軍との戦闘で[[鹵獲]]した[[AK-74]]や[[GP-25]]、[[AGS-17]]、[[2B9 82mm自動迫撃砲|2B9自動迫撃砲]]などのソ連製の最新型歩兵用兵器のサンプルを提供した。-->尚、ムジャーヒディーンと言われる勢力には親ソ派もおり、人民ムジャーヒディーン(People's Mujahedin)がよく知られている。
ソ連軍の撤退以降、ムジャーヒディーン各派はアフガニスタンでの主導権をめぐり対立、[[軍閥]]化していった。後にパキスタン軍統合情報局が支援する[[ターリバーン]]が台頭すると、ムジャーヒディーンの諸派は連合し[[北部同盟 (アフガニスタン)|北部同盟]]としてこれに対抗した。