「核兵器の歴史」の版間の差分

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頑強で科学的な知識の欠けたベリヤの監督の下ではあったものの、ソ連の科学者たちは研究を続け、1949年8月29日には、アメリカ側では"Joe-1"([[RDS-1]])と呼ばれたソ連初の原爆実験が[[セミパラチンスク核実験場]]で行われた。アメリカの見込よりも数年早い完成だった。ソ連が最初の核兵器を開発したというニュースは、アメリカによって世界へ知らされた。というのは、アメリカがカザフスタン国境近くで[[放射性降下物]]を観測したためである。
 
アメリカは核兵器の独占を失い、この後両国は終わりのない核開発競争を続けていくことになる。ソ連の核開発はアメリカで恐怖をもって受けいれられ、[[ジョセフ・マッカーシー]]上院議員による[[赤狩り]]([[マッカーシズム]])のような事件を引き起こした。しかし、近年ソ連崩壊後に得られた情報によると、ソ連のスパイは全員この赤狩りを逃れていたとされている。<!--Yet recent information from unclassified Venona intercepts and the opening of the KGB archives after the fall of the Soviet Union show that the USSR had useful spies that helped their program, although none were identified by the McCarthy.[citation needed] Before this, though, President Truman would announce his decision to begin a crash program to develop a far more powerful weapon than those which were used against Japan: the hydrogen bomb.-->
 
== 最初の水素爆弾 ==
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核分裂兵器を[[核融合]]過程の点火に使うことができるかもしれないという考えは、1941年にまで遡る。
 
真偽のほどは分からないが、日本の京都大学理学部の[[萩原篤太郎]]が1941年5月の講演のなかで、U235の爆発的連鎖反応についてと、それを起爆剤とした水素の熱核融合のアイデアを議論したと言われている<ref>ローズ 「原子爆弾の誕生」 pp.657</ref>。
1942年には、[[バークレイ]]の[[カリフォルニア大学]]でオッペンハイマーが開催した、最初の核兵器の開発に関する核物理学理論のカンファレンスにおいて、参加者の一人の[[エドワード・テラー]]は、エンリコ・フェルミの提案した、太陽の力そのものと同じ反応を用いる超強力爆弾の開発を進めるべきだと強硬に主張した<ref>ローズ「原子爆弾の誕生」 pp.658</ref>。テラーは共産革命下のハンガリーで少年期を過ごし、それ以来共産党をそしてソ連を恐れ憎んでいた。ソビエトの脅威に対抗することのできる超強力兵器の開発を、自分の天命だと考えていたのである<ref>足立 (1987) pp.238</ref>。