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{{基礎情報 公家
| 氏名=六条有房
| 画像=Rokujō Arifusa.jpg
| 画像サイズ=250px
| 画像説明=六条有房像([[三の丸尚蔵館]]蔵『[[天子摂関御影]]』より)
| 画像説明=
| 時代=[[鎌倉時代]]後期
| 生誕=[[建長]]3年([[1251年]])
| 死没=[[元応]]元年[[7月2日 (旧暦)|7月2日]]([[1319年]][[7月19日]])
| 改名=有真、戒浄([[法名]])
| 別名=千種、禅林寺、六条内府
| 諡号=
| 神号=
| 戒名=
| 墓所=
| 官位=[[従一位内大臣]][[内大臣従一位]]
| 主君=[[後宇多天皇]]→[[伏見天皇]]→[[後伏見天皇]]<br>→[[後二条天皇]]→[[花園天皇]]→[[後醍醐天皇]]
| 氏族=[[六条家#六条家(村上源氏]][[久我家|久我流]]庶流、[[六条家]]
| 父母=父:[[六条通有]]、母:[[藤原清定]]の
| 兄弟=
| 妻= [[後醍醐天皇]]皇女<ref name="a"/>?
| 妻=
| 子='''[[六条有忠|有忠]]'''、[[中院光忠]]、[[六条親忠季光|親忠季光]]、[[六条季光|季光照源]]、房雲女子
| 特記事項=
}}
'''六条 有房''' (ろくじょう ありふさ)は、[[鎌倉時代]]後期の[[公卿]]・[[歌人]]。[[太政大臣]][[久我通光]]の孫にして、[[左中将]][[六条通有]]の子。庶流出身で、父と同様に昇進は難渋したが、[[後宇多上皇]]の厚遇を得て[[内大臣]]に昇り、[[六条家]]を興した
 
== 歴 ==
前半生の官歴は定かでないが、恐らく[[村上源氏近衛次将]]の名門の出であるなどを経な幼く[[大覚寺統]]の[[亀山天皇|亀山]]・後宇多院に近侍して父・通有を失っ。通有最終官位はであろう。[[正四位永仁]]下右6年([[近衛大将1298年]])7月[[従三位]]であったため出世は望めなかった。このため、叙されて[[公卿]]であるに列し、[[従三位正安]]元年([[非参議1299年]]となったのは48歳の時であった)12月[[正三位]]に進んだところが、同3年([[大覚寺統1301年]][[後宇多二条天皇|]]が[[践祚]]して後宇多上皇]]が[[院政]]を開始すると[[院近臣左大弁]]として登用されて急速に昇進し・[[造寺司|造東大寺長官]]を兼ね、[[正安参議]]3に任じられる。[[乾元 (日本)|乾元]]元年([[13011302年]])に)12月[[弁官|左大弁侍従]]、翌2年([[参議1303年]]とな)1月[[正二位]]・[[権中納言]]に叙任され間もなく辞任。[[嘉元]]2年([[13031304年]])には権)5月祖父[[中納言久我通光]]に昇進して後に院[[伝奏影供]]を兼ね、行う<ref>『[[延慶 (日本)|延慶続門葉和歌集]]』</ref>。同3年([[13081305年]])には)3月[[大納言]]還任た。その後皇統が、11月[[持明使]]として[[鎌倉]]に下り、朝幕間の交渉に当たったために再び不遇となるが、[[文保徳治]]2[[11306年]])1211日 (旧暦)|1月11日[[正二位]]、同3年([[13181308年]])には)1月[[従一位権大納言]]に叙せら任さたが、8月天皇が重篤になと辞した
 
その後皇統が[[持明院統]]に移ったために再び不遇となる。[[文保]]2年([[1318年]])後宇多院政が再開する直前の[[1月11日 (旧暦)|1月11日]]には[[従一位]]に叙されたが、翌[[元応]]元年([[1319年]])病に倒れ、[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]「所労危急」のため上首2人([[中院通重]]、[[花山院師信]])を超越して[[内大臣]]に任じられた。これは後宇多法皇の[[詔]]によって前任[[一条内経]]を更迭し、[[兼宣旨]]や[[任大臣節会]]を行わず、[[陣儀]]で[[口宣]]を下すという異例の措置であった<ref>『[[公卿補任]]』によれば、[[元暦]]元年([[1184年]])の[[徳大寺実定]]還任の先例に従ったものだという。</ref>。3日後の[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]法皇自ら見舞いに訪れた際、病床に臥したまま拝謁し、辞職を願い出て[[出家]]した。[[法名]]は'''有真'''または'''戒浄'''<ref>『[[建内記]]』[[永享]]11年6月16日条。『公卿補任』の「法名有真(有直)」は誤伝ないしは別名か。</ref>という。[[薨去]]したのは明くる[[7月2日 (旧暦)|2日]]であった。[[享年]]69。
翌元応元年([[1319年]])、[[後醍醐天皇]]の即位によって後宇多上皇の[[院政]]が再開された時、有房は病の床にあった。だが後宇多上皇の希望により、同年[[6月28日 (旧暦)|6月28日]]に[[一条内経]]が突然内大臣を更迭されて、既に危篤状態であった有房が後任とされた。3日後の[[7月1日 (旧暦)|7月1日]]には急遽、後宇多上皇が有房を見舞った。この日、有房は内大臣を辞任して[[出家]]、翌日に[[崩御#その他の皇族・高位の者など|薨御]]した。
 
[[二条為世]]から[[二条派]]の[[歌学]]を学んだ[[歌人]]で、『[[新後撰和歌集]]』以下の[[勅撰集]]に24首、[[連歌]]集『[[莬玖波集]]』には11句入集する。[[京極派]]の歌論を批判した『[[野守鏡]]』『歌苑連署事書』の作者といわれる。[[能書家]]としても知られた。
 
==系譜==
* 父:[[六条通有]](?-?)
* 母:藤原清定の女
 
* 室:[[後醍醐天皇]]皇女<ref name="a">『[[実隆公記]]』[[文明 (日本)|文明]]8年10月5日条。廬山寺の寺伝でも照源を後醍醐の皇孫と伝えているが、後醍醐と照源の年齢差は10歳に過ぎず、世代的に整合しない。</ref>?
** 六男:[[照源]](房雲、1298-1368) - [[廬山寺]]3世
 
*生母不詳
** 一男:[[六条有忠]](1281-1339)
** 二男:[[中院光忠]](1284-1331)
** 三男:[[六条季光]](?-?)
** 女子:[[花山院家定]]室
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
==参考文献==
* [[本郷和人]] 「廷臣小伝」(『中世朝廷訴訟の研究』 [[東京大学出版会]]、1995年、ISBN 9784130201070)
* [[小川剛生]] 「六条有房について」(東京大学国語国文学会編 『國語と國文學』第73巻第8号 [[至文堂]]、1996年8月、{{NCID|AN00088621}})
 
 
{{先代次代|[[六条家]]当主|第2代|[[六条通有]]|[[六条有忠]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ろくしよう ありふさ}}
[[Category:六条家|ありふさ]]
[[Category:鎌倉時代の公家]]
[[Category:鎌倉時代の歌人]]
[[Category:1251年生]]
[[Category:1319年没]]