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'''トマス・ルイス・デ・ビクトリア'''('''Tomás Luis de Victoria''', [[1548年]] [[アビラ]] - [[1611年]][[8月20日]])は[[黄金世紀]][[スペイン]]の生んだ[[ルネサンス音楽]]最大の[[作曲家]]の一人。[[16世紀]]スペインの[[作曲家]]では最も有名であり、多くの人から[[ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ|パレストリーナ]]に次ぐ[[ポリフォニック]]な[[教会音楽]]の大家と見なされている。
 
おそらく少年期に[[セゴビア]]で[[バルトロメー・デ・エスコベド]]に学んだらしい。[[1564年]]頃に[[ローマ]]に行き、[[イグナチオ・デ・ロヨラ]]によって創設された[[イエズス会]]の会士となったことは知られている。この頃にパレストリーナに師事したようだが、これについては状況証拠しか残っていない。とはいえビクトリアがパレストリーナの様式に影響されているのは確かである。ビクトリアはイエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、[[1575年]]に[[司祭]]として[[叙階]]された。
 
しかしながらイタリアに逗留することなく、[[1586年]]になるとスペインに帰国、今度は、[[マドリッド]]のデスカルサス・レアレス女子修道会の一員となった[[マリア・デ・アブスブルゴ|皇太后マリア]]に奉職することになる。ビクトリアは終生にわたってこの修道会にとどまり、司祭・作曲家・合唱指揮者・オルガニストなど、数々の役割をこなした。皇太后マリアは[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]の妃であり、[[スペイン]]王[[フェリペ2世]]の妹だった人物である。