「エドアルド・キヨッソーネ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
7行目:
キヨッソーネが来日したのは[[1875年]](明治8年)のことであったが、当時彼は[[イギリス]]の印刷会社に勤めていた。招聘に応じたのは[[大隈重信]]が破格の条件(月額454円71銭8厘)を提示したこともあったが、当時[[写真製版]]技術の発達が進んでいたこともあり、銅版画の技術を生かせる活躍の場を求めたこともある。一方、樹立間もない明治政府にとって偽造されないような精巧な紙幣を製造するのは大きな課題であり、このままドンドルフ・ナウマン社に紙幣印刷を依頼するのは経費がかさむうえ安全性に問題があるとして、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めたのである。
 
来日後、[[大蔵省]]紙幣局(現・[[国立印刷局]])を指導。印紙や政府証券の彫刻をはじめとする日本の[[紙幣]]・[[切手]]印刷の基礎を築いたほか、新世代を担う若者たちの美術教育にも尽力した。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、[[収入印紙|印紙]]、銀行券、[[証券]]、[[国債]]などは500点を超える。特に日本で製造された近代的紙幣の初期の彫刻は彼の手がけた作品である。また、1888年には宮内省の依頼で[[明治天皇]]の[[御真影]]を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与された。また[[元勲]]や[[皇族]]の銅版肖像画も残した。似てい面識がない作品人物を描いたことも少なくないが、例えば[[西郷隆盛]]の肖像については西郷本人と面識がないうえに、西郷の写真も残っていなかったため、西郷の朋輩であり縁者でもあった[[得能良介]]からアドバイスを受けて[[西郷従道]]と[[大山巌]]をモデルに合成しイメージを作り上げものであるという。また[[藤原鎌足]]や[[神功皇后]]の肖像も彼が描いたものであった。また日本の欧米諸国の技術水準で製造された最初の[[普通切手]]シリーズの小判切手は彼がデザインしたものであった。
 
印刷業における功績として、[[司馬江漢]]以来[[エッチング]]一辺倒だった日本に、腐食に頼らずビュランを使用する直彫りの[[エングレービング]]や[[メゾチント]]を紹介し、腐食によるものでもソフト・グラウンド・エッチングや[[アクアチント]]等の本格的な銅版技術を伝授した。また、日本でそれまで普及していなかった原版から精巧な複数の版をおこす「クラッチ法」や「電胎法」などをもたらした事で、安定した品質での大量印刷が可能になった。