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{{Otheruses|原因と結果に関わる概念全般|インド哲学や仏教における原因と結果の概念|因果}}
'''因果性'''(いんがせい、{{Lang-en-short|causality}})とは、何か結果より先に原因が存在すること、あるいは結果と原因の関係性のことである。つまり、ある物事がの物事を引き起こしたり生み出しているされる/する考えたとき結びその二ことで物事の間にある関係性を因果性という
 
== 概要 ==
因果性とは、2 つの[[出来事]]が原因と結果という関係で結びついていることや、あるいは結びついているかどうかを問題にした概念である。英語では {{en|causality}} と言う。日本語では類語で「因果関係」という表現も用いられる。
 
「C が起きた原因は B1 B2 である」「A の結果、Z が起きた」「A のせいで B が起きた」などが因果性があると表現した文章である。
 
[[ファイル:Ishikawa Fishbone Diagram.svg|thumb|240px|ひとつの出来事に骨状・ツリー状に原因の連鎖を挙げ、それらを分析することで改善を図る[[特性要因図]]の一例(純粋科学的なレベルではなく、日常・実用・工学的なレベルで 原因を分析する)]]
ある出来事の原因、について考察する時、しばしばたったひとつのことを原因として挙げる人がいる。例えば、「今朝遅刻した原因は、昨日飲み過ぎたのが原因だ」といったような考え方をする人である。だが、「昨日飲み過ぎたことが、今朝の遅刻の原因」と言うことが適切なのかは実は怪しい疑問の余地がある。例えば、昨日飲み過ぎたとしても、昨晩目覚まし時計をかけるのを忘れなければ、起きられたかもしれない。夜中に近所で騒音がして睡眠が妨害されることが無かったら起きられたかも知れない。カーテンを閉めて朝日が入らなかったことも原因かも知れない。他にも書ききれない無数の条件が揃っていたからその出来事は起きたのである。「遅刻した」というひとつの出来事には、実際には無数の原因が存在しているのである。
 
人々が因果関係だと信じているものの中には、実は誤解・錯覚にすぎず、因果関係ではないものが多数含まれている。因果性に関する誤謬のひとつに、同時に発生している 2 つの出来事のあいだに因果性を認めてしまう誤謬もある。アイスクリームの消費が増える時期と水死者が増える時期はおおむね一致するが、だからといって「人々がアイスクリームを食べたから、水死者が増えた」とするのは短絡的で、実際には[[相関関係と因果関係|相関関係]]にすぎない。「暑い→アイスクリーム消費量が増える」「暑い→水遊びをする人が増え水死者が増える」という共通原因があるに過ぎない。
 
[[西洋哲学]]では古来、因果性についてさまざまな考察が行われてきた。[[アリストテレス]]は原因を4つに分類して考察してみせた。これは現在でも有用性が認められることがある。ヒュームは哲学的に、因果性の存在自体について疑問視した。
 
もともとギリシアでは[[自然]]はそれ自体に変化する能力がある、と理解されており、自然は動的なもの、それ自体で変化するもの、としてとらえられていた<ref name="oonuma">[[#oonuma|大沼正則 (1978)]]。</ref>。自然自体、そして個々の存在自体の中にも原因・動因がある、という理解である。それは一般的な理解であった(東洋人でも、一般的な自然理解としては、昔も今も、自然自体に変化する能力を認めている)。
もともとギリシアでは[[自然]]はそれ自体に変化する能力がある、と理解されており、自然は動的なもの、それ自体で変化するもの、としてとらえられていた<ref name="oonuma">大沼正則 『科学の歴史』 青木書店、1978年</ref>。自然自体、そして個々の存在自体の中にも原因・動因がある、という理解である。それは一般的な理解であった(東洋人でも、一般的な自然理解としては、昔も今も、自然自体に変化する能力を認めている)。西欧でデカルトが世界論を最初に構想・執筆した時、(ギリシアの自然観同様)自然自体に発展する能力を認めた説を構築しその原稿を書いた<ref name="oonuma" /><ref>つまり、現代の[[創発]]の概念にもつながるような発想の原稿。</ref>のだが、原稿を書き終えた後で[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]裁判の判決の結果を聞いたデカルトは、自身が[[ブルジョア]]階級者で体制側の人間そのものでもあったこともあり、体制である教会を敵にまわすことを避けるため、その説の出版は止め<ref name="oonuma" />、説の内容を改変し<ref name="oonuma" />、キリスト教的な神が必要とされるように、”自然は死んでいて、常に神が働きかけることによって動いている”、とする世界観の説へと変えてしまい、それを出版した(『世界論』)<ref name="oonuma" />。もともと世の中では一般的に、[[力]](要因・原因)には、内的な力と外的な力があるとされていたのが、デカルトの政治的な意図によって改変されたその論では内的な力がすっかりそぎ落とされてしまったわけである。こうして改変された説が、同時代・後世へと大きな影響(悪影響)を及ぼしてゆき、死んだものとしての自然観、個々の存在の内的な力(動因)の記述が欠落した説明方法が登場し、世に広まってゆくことになった。[[自然哲学]][[アイザック・ニュートン]]も、自身の信仰によって[[神]]を考慮しつつ説を組み立てており万有引力と関係させ、空間は神の感覚中枢、と述べた<ref>『光学』、空間は sensorium dei神の感覚中枢 と記述している</ref>。デカルトの書物の影響も大いに受けつつ、またニュートンの説の中の含まれている[[粒子論]]などの影響も受けつつ(しかもデカルトの意図ともニュートンの意図とも異なった形で)、18世紀の西欧では[[機械論]]という、世界を独特の単純な図式、外的な動因だけで説明する方法が広まったが、そこでは原因と結果についてもきわめて単純な考え方をしていた。19世紀ごろに数が増えていった科学者たちは、(ニュートンの意図とは異なり)自分たちの単純な機械論的世界観に合う部分だけを恣意的に抽出して[[古典力学]]を構築して、ついにはラプラスのように神は不要と主張しつつ[[決定論]]的な世界観を強く主張するものが出た。ある状態が決まれば結果は一意に決まるはずだ、といった主張である。だが一時期強固にも見えたこうした世界観は20世紀になり崩れてゆくことになった。
 
西欧で[[ルネ・デカルト]]が『世界論』を最初に構想・執筆した時、(ギリシアの自然観同様)自然自体に発展する能力を認めた説を構築しその原稿を書いたのだが<ref name="oonuma" /><ref group="注">つまり、現代の[[創発]]の概念にもつながるような発想の原稿。</ref>、原稿を書き終えた後で[[ガリレオ・ガリレイ|ガリレオ]]裁判の判決の結果を聞いたデカルトは、自身が[[ブルジョア]]階級者で体制側の人間そのものでもあったこともあり、体制である教会を敵にまわすことを避けるため、その説の出版は止め<ref name="oonuma" />、説の内容を改変し<ref name="oonuma" />、キリスト教的な神が必要とされるように「自然は死んでいて、常に神が働きかけることによって動いている」とする世界観の説へと変えてしまい、それを出版した<ref name="oonuma" />。
20世紀に発展した[[量子力学]]では、subatomicレベル(原子より小さいレベル)での状態は、直前の状態によって決定されるのではなく、純粋に確率的に起きている、とされるようになった<ref>平凡社『西洋思想大事典』1990 【因果性】</ref>。そこでは、機械論的な因果観はもはや通用しない。現代科学では、厳密に言って、もはや決定論は時代遅れとなった。状態が決まっても結果は一意には決まらない、とする論などを'''非決定論'''と言う。
 
もともと世の中では一般的に、[[力]](要因・原因)には、内的な力と外的な力があるとされていたのが、デカルトの政治的な意図によって改変されたその論では内的な力がすっかりそぎ落とされてしまったわけである。こうして改変された説が、同時代・後世へと大きな影響を及ぼしてゆき、死んだものとしての自然観、個々の存在の内的な力(動因)の記述が欠落した説明方法が登場し、世に広まってゆくことになった。
ただし、日常的には、原因や結果という概念は(古典力学的にでもなく、量子力学的にでもなく)従来からの人々の習慣どおりに用いられている。
 
[[アイザック・ニュートン]]も、自身の信仰によって[[神]]を考慮しつつ説を組み立てており[[万有引力]]と関係させ「''空間は神の感覚中枢'' 」と述べた<ref>『光学』、空間は {{la|''sensorium dei''}}(神の感覚中枢)と記述している</ref>。
 
[[20世紀]]に発展した[[量子力学]]では、subatomicレベル(原子り小さいレベル)でれば、[[系 (自然科学)|系]][[量子状態は、直前の|量子論的な状態によって]]は[[決定論]]的に振る舞うが、そこから得られるので観測結果なく、純粋に確率的に起きてい、とされるよになった<ref>[[#seiyoushisou|平凡社『西洋思想大事典』(1990 )]]【因果性】</ref>。そこでは、機械論古典的な意味での因果観はもはや通用しない。現代科学で成立せず厳密に言って、もはや決定[[局所性]]と[[実在|実在性]]時代遅れと両立しった。状態が決まっても結果は一意には決まらない、とする論などを'''非決定論'''と言う。
 
== アリストテレスの説 ==
アリストテレスは、ものごとが存在する原因を以下の四種類に分類した(これを「[[四原因説]]」と言う)。
*# 素材因(質料因)
*# 形相因
*# 作用因(始動因)
*# 目的因
 
この考え方が良く理解できるひとつの例を挙げると、例えば、目前にひとつの木彫りの彫刻が存在する場合、これが存在するのは、誰かが、木材という「素材」を用いて、何らかの表現をする「目的」で、彫るという「作用」を加え、なんらかの「形」を作り出したからである。このようにアリストテレスは、原因というものを四つに分類してみせた。
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== ヒュームの因果説==
西洋近代では[[デイヴィッド・ヒューム]]が、因果性とは、空間的に隣接し時間的に連続で、2 種類の出来事が伴って起きるとき、この 2 種類の出来事の間に人間が想像する(人間の心、精神の側に生まれる)必然的な結合関係のことである、とした。つまり、物事はたまたま一緒に起きているだけでも、人間が精神活動によって勝手に結びつきの設定をしている、という指摘を含んでいる。
 
== 因果規則性説 ==
隣接し、連続して起きる二つの出来事は、それを述べる普遍言明の文に組み込まれるとき、因果的に結びついている、とする。ヒュームの心理的要素を除き、そのかわり {{en|statement}} 記述の生成という点に着目している説。科学の場で記述を作りだしてゆく方法やその問題点についての示唆も与えてくれる説である。
 
== 単称因果言明、因果律 ==
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== 因果律という考え方の反事実条件法への置き換え ==
「全ての出来事には原因がある」と「因果律」という考え方を採用するということは、宇宙全体の性質に関して、検証も無しに、形而上学的に非常に強い主張をしてしまうことになる<ref name="tetsugaku-shisou">『哲学・思想 事典』<!--岩波?--></ref>。このような主張を含んでしまうと、結局、証明も[[反証]]もできない言明をしてしまっているのと同じことになるので、(広く認められている[[反証主義]]の方法論を採用すると)これはもはや科学的言明ではない、ということになってしまうのである。
 
一般に、科学の世界では、もし途方もなく強い主張をする時は、途方もない主張を支えるに足るだけの非常に確たる証拠を示さなければならない、とされている。したがって、(科学的な方法を守り、科学的な記述を構築してゆくためには)このような主張(因果律)を含めずに済むならば、そのほうが良いのである<ref>『哲学・思想 事典』<name="tetsugaku-shisou"/ref>。
 
また、「出来x が、別の出来y を引き起こした」という単称因果言明は、「<u>この状況においては</u>、出来x がなければ、出来y は起きなかったはずだ」という、条件法命題に置き換えると、「因果律」という、途方もない前提は含んでいない。
 
「この状況においては」という箇所の明示的な記述が必要となってくる。実は、これを厳密に行おうとすると、大きな困難が生じる。というのは、その状況というのは、つきつめると厳密には全宇宙の状態を記述しなければならないということになるからである。このように結局、因果性という概念は、本質的に形而上学的概念である<ref>『哲学・思想 事典』<name="tetsugaku-shisou"/ref>。
 
== 因果律 ==
=== 物理学における因果律 ===
[[古典物理学]]での因果律とは、「現在の状態を完全に指定すればそれ以後の状態はすべて一義的に決まる」と主張するものであったり、「現在の状態が分かれば過去の状態も分かる」と主張するものである<ref name="ingaritu">[[#sekaidaihyakka|平凡社『世界大百科事典』]] vol.7 p.7【因果律】</ref>。<!--「いかなる[[事象]]も[[時間]]的に[[過去]]に起こった事を[[原因]]として起こる」--><!--<ref>{{要出典|date=2009年9月}}あるいは、「非[[決定論]]的立場」に立つならば「純粋に[[偶然]]に起こる」場合も含む、とする考え方である。</ref>--><!--<ref>因果律は「{{要出典範囲|少なくとも[[未来]]の事象を原因としてそれよりも過去の何らかの事象が起こる、という事はない|date=2009年9月}}」とする考え方。</ref>-->
 
また[[相対性理論]]の枠内においては、[[情報]]は光速を超えて伝播することはく、[[光速]]×時間の分以上離れた距離にある二つの物理系には、時間をさかのぼって情報が飛ぶ事しに、上記の時間内に情報のやり取りは起こらない。物理学の範疇ではこの「光速を超える情報の伝播は存在しない」という原理を同じく因果律という。<ref name="ingaritu" />。
 
[[原論が必要な]]や[[分子]]程度のめてさなスケール世界現象では[[量子力学]]的な効果が無視できないほど大きく、古典的な意味での因果律は完全に成り立っていない<ref name="h_hiketteisei">[[#seiyoushisou|平凡社『西洋思想大事典』]] (1990)【因果性】p.595</ref>。
日常に比べて極めて小さいスケールでは物理を論じるに当たって[[量子力学]]が必要となるが、
量子力学における[[ニュートンの運動方程式]]に相当する[[運動方程式]]は[[ハイゼンベルクの運動方程式]]であり、これは[[シュレーディンガー方程式]]と等価である。シュレーディンガー方程式の解である[[波動関数|状態関数]]は物理量の[[確率分布]]([[確率密度関数]])しか与えず、シュレーディンガー方程式によって全ての物理量が一義的に決まることはない<ref>[[#Peskin|Peskin, Schroeder (1995)]] Chapter 2 他。</ref>。また、量子力学においては[[最小作用の原理]]が成立せず、[[正準交換関係]]による[[不確定性原理|不確定性]]から、物体はある定まった[[軌道]]を描いては運動しない<ref>[[#Landau|Landau, and Lifshitz, "Course of theoretical physics" Volume 3]].</ref>。古典的な物体の軌道に相当する概念は、[[リチャード・ファインマン]]による[[経路積分]]によって示される。
量子論が必要な極小の世界では古典的な意味での因果律は完全には成り立っていない<ref name="h_hiketteisei">平凡社『西洋思想大事典』【因果性】p.595</ref>。
量子論において、系の情報を持っているのは[[密度行列]]であり、密度行列の[[時間発展]]は[[リウヴィル-フォン・ノイマン方程式]](あるいは単に[[リウヴィルの定理 (物理学)|リウヴィル方程式]])によって記述される。
量子論では[[不確定性原理]]の許す範囲でならば[[運動量]]や[[エネルギー]]が運動方程式に従わない値を取ることが可能である。運動方程式の解である状態関数は全ての実現可能な状態の中から運動方程式が示す状態が実現している確率振幅しか与えず、運動方程式によって全ての運動が一義的に決まることは無い<ref>Peskin, Schroeder A Introduction to Quantum Field Theory 2章 他 </ref>。
 
古典的定義から離れ因果律の定義を「時間軸上のある一点において状態関数が決まれば以降の状態関数は自然に決まる」と解釈すれば「量子論的領域でも因果律は保たれる」と言える<ref name="ueda">[[#ueda|上田正仁 現代量子物理学 他(2004)]]。</ref>「一見因果律が破れているように見える思考実験である[[アインシュタイン=ポドルスキー=ローゼンのパラドックス|EPR相関]]においても、実際光速を超えているのは[[状態関数]]の波束の収束速度であり、状態関数そのものが演算子によって書き換えられる(つまり情報を受け取る)わけではなく、因果律は保たれている」と言える<ref>上田正仁 現代量子物理学 他<name="ueda"/ref>。
 
=== 歴史 ===
因果律の[[定義]]は[[時間]]の定義とも密接に関係している。また、「時間」や「因果」はそれを認識する人間の主観によっても左右される。いずれにせよ、我々の感覚における「時間」に相当する性質を一部でも持つものを時間として定義し、そうして定義された時間の下で因果と因果律の概念は定義される。
<!--{{要出典範囲|人類は、昔から、[[過去]]→[[現在]]→[[未来]]というように[[時間]]を感じる、時間の流れととらえる認識を素朴に持っている。|date=2011-7}}--><!--つまり、-->因果律の概念を正確に理解しようとすると、人間が素朴に抱いている「[[時間]]」という概念(あるいはそう捉える人間の認知システム)の本質についての考察と切り離して考える事はできないのだが、「そもそも[[時間]]とは何か」という点についてすらも確かなことは分からず、西洋科学の時間論も結局はキリスト教的時間観を先入観として構築したものにすぎず([[時間]]の項も参照のこと)、人類が素朴に抱く因果律という観念の基盤は実は危うい。
 
人間の因果に関する認識について問題提起を行った[[哲学者]]に[[イギリス]]の[[ディヴィッド・ヒューム]]がいる。彼は普段人間がある物事と物事を結びつけて考える際、先に起こった事が後の事の原因になっていると観察する暗黙の[[経験則]]に導かれているに過ぎないのではないかと疑った。つまり[[蓋然性]]は必ずしも[[必然性]]を意味しないということであり、連続して起こった[[偶然]]を[[錯覚]]している可能性があるとする。
 
近世になると西欧で[[ゴットフリート・ライプニッツ]]らによって[[機械論]]的な世界観が強く主張され、純な化された因果律が主張された。そして、20世紀初期には[[アルベルト・アインシュタイン]]によって[[相対性理論]]が発表されたが、そこには[[時空連続体]]という概念が含まれており、因果律についても新たな観点が与えられることとなった。
 
[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭に[[量子力学]]が形成され、[[1926年]]には[[エルヴィン・シュレーディンガー]]によって[[シュレーディンガー方程式]]が示された。シュレーディンガー方程式の[[方程式#関数方程式|解]]となる[[波動関数]] {{mvar|&Psi;}} の物理的解釈は明確ではなかったが、[[マックス・ボルン]]によって波動関数の[[絶対値]]の二乗 {{math|{{!}}''&Psi;''{{!}}{{sup|2}}}} が測定値の[[確率分布]]([[確率密度関数]])になるという、[[ボルンの規則|波動関数の確率解釈]]が与えられると、すべての物理現象は確率的に起こるという考えが示されるようになった。
20世紀も半ばになると、[[確率論]]、[[統計学]]、[[量子力学]]も大きな発展をとげ、特に[[量子力学]]は、全ての事象は(先行する物理的状態と結びつけることは困難なしかたで)確率的に起きている、ということを実証し、因果律という考え方は後退することになった。[[ニールス・ボーア]](1885- 1962)も、"因果律"というのは、あくまで人間的なスケールにおいて限定的に、あたかも成り立っているように見えているにすぎない、[[近似]]として成り立っているにすぎない、微視的なスケールでは成り立っていない、と釘をさした。<ref>ニールス・ボーア 『ニールス・ボーア論文集〈1〉因果性と相補性』岩波文庫</ref>
 
このことは、[[ピエール=シモン・ラプラス]]が自身の[[確率論]]の中で示した[[ラプラスの悪魔]]の問題とはいささか事情が異なる。ラプラスの悪魔とは[[系 (自然科学)|系]]の情報をすべて持っている観測者のことで、ラプラスは確率的事象は観測者の知る情報量の不足によって生じると考えた。この考えは[[古典力学]]に対しては正しいが、量子力学に対しては正しくない。量子力学においては、観測者が完全な情報を得ていたとしても、系の波動関数はシュレーディンガー方程式に従って[[時間発展]]し、波動関数そのものは[[決定論]]的に振る舞うが、観測される物理現象は確率的に振る舞う。従って、量子論的な世界における因果律は、従来考えられていた古典論に則した因果律とは違ってくる。量子力学における因果律とは、波動関数がシュレーディンガー方程式に従って変化し、かつどの時刻でも波動関数が定まることを意味する。
 
量子力学における確率的な現象に対して、[[古典論]]と同じようにそれが情報の不足によって現れるとする考えと、[[量子論]]的なスケールでは根源的に物理現象は確率的にしか予測できないとする考えが示された。アインシュタインは前者の考えを支持し、[[1935年]]にアインシュタインと[[ボリス・ポドルスキー]]、[[ネイサン・ローゼン]]は[[実在論]]的な[[数理モデル|物理モデル]]が従うべき仮定と[[隠れた変数理論]]の必要性を示した<ref name="EPR">[[#EPR|Einstein, Podolsky, Rosen (1935)]].</ref>。一方、[[ニールス・ボーア]] (1885 &mdash; 1962) は後者の考えを支持した。
 
アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの示した仮定は[[1967年]]に{{仮リンク|サイモン・コッヘン|en|Simon B. Kochen}}と{{仮リンク|アーンスト・シュペッカー|en|Ernst Specker}}が提出した{{仮リンク|コッヘン・シュペッカー定理|en|Kochen–Specker theorem}}によって否定された<ref>[[#Kochen-Specker|Kochen, and Specker (1967)]].</ref>。また実験的にも、[[1982年]]に[[アラン・アスペ]]によって{{仮リンク|CHSH不等式|en|CHSH inequality}}が破れていることが報告され、[[局所実在論]]的な隠れた変数理論は否定された。CHSH不等式とは、[[ジョン・スチュワート・ベル]]が局所実在論的な測定モデルが満たすべき条件として導出した[[ベルの不等式]]の一種であり、ジョン・クラウザー ({{en|John Clauser}})、マイケル・ホーン ({{en|Michael Horne}})、アブナー・シモニー ({{en|Abner Shimony}})、リチャード・ホルト ({{en|Richard Holt}}) らによって示された[[不等式]]のことである。
 
因果律についてボーアは、あくまで人間的なスケールにおいて[[近似]]的に成り立っているに過ぎず、微視的なスケールでは成り立っていない、と考えていた<ref>[[#Bohr|ボーア論文集 (1)]]。</ref>。ボーアの考えは、当時の量子力学は[[原子]]や[[分子]]のスケールで起こる現象を中心に取り扱っていて、原子などに比して巨大な系に対する量子論的な現象が知られていなかったことによる。
<!--
{{要出典}}また自然法則としての因果律に対する逆説的立場としては、「因果律は絶対的な自然法則ではないが、現在われわれがいるこの世界には、結果的に因果律を成立せしめるような何らかの要素が存在しているため見かけ上そのように見えるのだ」という論理を展開することも不可能では無い{{要出典}}と述べる人もいる。(例えば、「超越的な全能の存在」の意志を仮定する。
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
<references {{reflist|group="注"/>}}
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプreflist}}
{{Reflist}}
<references group="注"/>
 
== 参考文献 ==
{{wikisourcelang|en|Opticks|"Opticks" by Isaac Newton}}
* 江夏弘「場の量子論における相対論的Hamilton形式と微視的非因果律」『立命舘大学理工学研究所紀要』 11 pp.65-66 1964
* {{cite book|和書|publisher=[[平凡社]]|title=西洋思想大事典|others=フィリップ・P・ウィーナー(編)|isbn=9784582100105|year=1990|month=8|ref=seiyoushisou}}
* 関根松夫「高エネルギーで因果律の破れている可能性」『素粒子論研究』、36(3) pp.231-242 1967.11
* {{cite book|和書|publisher=平凡社|title=世界大百科事典|<!--edition=改訂新版|year=2007|month=9|isbn=9784582034004-->|ref=sekaidaihyakka}}
* 関根松夫「因果律の破れと高エネルギーπ-N全断面積」『素粒子論研究』、40(5) pp.200-202 1970/01
* {{cite book|和書|author=大沼正則|authorlink大沼正則|title=科学の歴史|publisher=青木書店|year=1978|ref=oonuma}}
* 稲垣久和「微視的因果律の破れと共鳴準位」『素粒子論研究』、49(1) pp.22-34 1974.03
* {{cite book|和書|author=上田正仁|authorlink=上田正仁|title=現代量子物理学|publisher=[[培風館]]|year=2004|month=12|isbn=978-4563022655|ref=ueda}}
* 藤沢令夫「Aitia-Causa-Cause--「因果律」とは基本的に何だったのか」『理想』、1987, (634) pp.100-103、1987/04
* {{cite book|author=L D Landau, E.M. Lifshitz|title=Quantum Mechanics: Non-Relativistic Theory|series=Course of theoretical physics 3|publisher=Butterworth-Heinemann|edition=3rd|date=1976-12-31|isbn=978-0750635394|ref=Landau}}
* 相澤洋二「複雑系と多対多の因果律」(研究会「複雑系」,研究会報告)、『物性研究』、59(3) pp.343-347 1992.12
* {{cite book|author=Michael E. Peskin, Daniel V. Schroeder|title=A Introduction to Quantum Field Theory|publisher=Westview Press|date=1995-10-02|isbn=978-0201503975|ref=Peskin}}
* {{cite journal|和書|author=江夏弘|authorlink=江夏弘|title=場の量子論における相対論的 Hamilton 形式と微視的非因果律」『|journal=立命舘大学理工学研究所紀要|volume=11 pp.|pages=65-66 |year=1964|ref=enatsu}}
* {{cite journal|和書|author=関根松夫|authorlink=関根松夫|title=高エネルギーで因果律の破れている可能性」『|journal=素粒子論研究』、|volume=36(|issue=3) pp.|pages=231-242 |year=1967.|month=11|ref=sekine1}}
* {{cite journal|和書|author=関根松夫|title=因果律の破れと高エネルギー π-N 全断面積」『|journal=素粒子論研究』、|volume=40(|issue=5) pp.|pages=200-202 |year=1970/01|month=1|ref=sekine2}}
* {{cite journal|和書|author=稲垣久和|authorlink=稲垣久和|title=微視的因果律の破れと共鳴準位」『|journal=素粒子論研究』、|volume=49(|issue=1) pp.|pages=22-34 |year=1974.03 |month=3|ref=inagaki}}
* {{cite journal|和書|author=藤沢令夫|authorlink=藤沢令夫|title=Aitia-Causa-Cause --「因果律」とは基本的に何だったのか」『|journal=理想』、1987, (|issue=634) pp.|pages=100-103|year=1987/04 |month=4|ref=fujisawa}}
* {{cite journal|和書|author=相澤洋二|authorlink=相澤洋二|title=複雑系と多対多の因果律」(研究会「複雑系」,研究会報告)、『)|journal=物性研究』、|volume=59(|issue=3) pp.|pages=343-347 |year=1992.|month=12|ref=aizawa}}
* {{cite book|和書|author=ニールス・ボーア|authorlink=ニールス・ボーア|title=ニールス・ボーア論文集〈1〉因果性と相補性|publisher=岩波文庫|ref=Bohr}}
* {{cite journal|author=A. Einstein, B. Podolsky, and N. Rosen|year=1935|url=http://prola.aps.org/abstract/PR/v47/i10/p777_1|title=Can Quantum-Mechanical Description of Physical Reality Be Considered Complete?|journal=Physical Review|volume=47|pages=777-780|ref=EPR}}
* {{cite journal|author=S. Kochen, and E.P. Specker|title=The problem of hidden variables in quantum mechanics|journal=Journal of Mathematics and Mechanics|volume=17|pages=59–87|year=1967|ref=Kochen-Specker}}
 
== 関連項目 ==