「ジョン・コンスタブル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{参照方法|date=2012年12月}}
[[ファイル:ConstableSelfPortrait.png|150px|right|thumb|[[自画像]] ]]
[[ファイル:John_Constable_The_Hay_Wain.jpg|thumb|right|300px|乾草車 1821 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵]]
[[ファイル:John Constable 017.jpg|thumb|right|200px|主教の庭から見たソールズベリ大聖堂 1823 ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(ロンドン)蔵]]
{{Commonscat|John Constable}}
'''ジョン・コンスタブル'''('''John Constable'''、[[1776年]][[6月11日]] - [[1837年]][[3月31日]])は[[19世紀]]の[[イギリス]]の[[画家]]である。'''カンスタブル'''と表記することもある。
 
同時代の[[ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー|ウィリアム・ターナー]]とともに、19世紀イギリスを代表する風景画家である。<br />西洋絵画の歴史においては神話、聖書のエピソード、歴史上の大事件や偉人などをテーマとした「歴史画」が常に上位におかれ「風景」は歴史画や物語の背景としての意味しか持っていなかった。[[17世紀]][[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]では[[風景画]]が発達したが、ヨーロッパ全土で風景画が市民権を得るには[[フランス]]の[[バルビゾン派]]、イギリスのターナーやジョンが登場する19世紀を待たねばならなかった。
 
ジョンは[[1776年]]、ロンドンの北東にあるサフォーク州イースト・バーゴルトに裕福な製粉業者の子として生まれた。画家を志したのは比較的遅く20歳の時、商売を覚えるためロンドンへ出たときにジョージ・スミスという風景画家に出会ったのがきっかけという。
 
[[1799年]]、23歳の時に[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|ロイヤル・アカデミー附属美術学校]]の見習生となり翌年には正規の学生となっている。アカデミーの展覧会に初めて出品したのは[[1802年]]、26歳の時であった。ターナーが27歳にしてロイヤル・アカデミー正会員となっているのに対しジョンは[[1819年]]、43歳の時にようやくロイヤル・アカデミー準会員となった。正会員になるのはさらに10年後の[[1829年]]、53歳の時である。
 
[[ロマン派]]色が濃く劇的な画面を創造したターナーに対し、ジョンは終生故郷サフォーク周辺の身近な風景を描き続けた。野外での制作を始めたこと、刻々と変化する光の効果を捉えようとしたこと、パレットで色を混ぜ合わせるのでなく画面上に異なる[[色価]]の筆触を並べる(たとえば微妙に色調の異なる緑のタッチを併置する)などその制作態度や技法は[[印象派]]に先駆するものといえる。
 
代表作『乾草の車』は画家の地元サフォークの平凡な風景を詩情豊かに描き出したもので、[[1821年]]に母国のロイヤル・アカデミーに出品した時は全く話題にならなかったのに対し[[1824年]]パリのサロン(フランスの官展)に出品された時は絶賛を浴びロマン派の画家[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]にも大きな影響を与えている。
 
== 代表作 ==
* 乾草の車(1821)((1821年 ロンドン、[[ナショナルギャラリー (ロンドン)|ナショナル・ギャラリー]])
* 主教の庭から見たソールズベリー大聖堂(1823)((1823年 ロンドン、[[ヴィクトリア&アルバート美術館]])
 
== リンク ==
31行目:
[[Category:ロマン派の画家]]
[[Category:19世紀の美術家]]
[[Category:ババサフォ出身の人物]]
[[Category:1776年生]]
[[Category:1837年没]]